【名選手・誕生秘話】「年俸240万円」から日本代表へ。太田宏介を導いた指揮官と元代表戦士との出会いとは?

2017年04月04日 飯尾篤史

「自分は戦力と見なされていないのではないか」

プロ入り3年目で才能が開花。左足の正確なキックを武器に左SBに定着すると、翌年には清水へ移籍した。写真:滝川敏之(サッカーダイジェスト写真部)

 左SBとして生きていく決意は、プロに入ってすぐに固めた。
 
 高校時代にプレーした左サイドハーフへの未練も、練習を重ねるうちに断ち切った。プロとして攻撃的なポジションでプレーするには、ドリブルやフェイントといった備え持つべき武器が、あまりに心許なかったからだ。
 
 しかし、左SBとしてプレーする機会はなかなか巡って来なかった。公式戦はもちろん、練習試合でさえ――。
 
「1年目は試合に出場できなかったし、練習試合でも人が足りないポジションで起用されることが多くて、左SBをやったり、ボランチをやったり。2年目は試合に出場できるようになったんですけど、CBだったので、今後の自分がどうなっていくのか正直分からなかった」
 
 のちに日本代表となり、ヨーロッパへ渡ることにもなる若者は二十歳の頃、先が見えずにもがいていた。
  
 横浜FCでプロ選手となった2006年シーズン、太田宏介は公式戦のピッチに2回しか立っていない。メンバーを入れ替えて臨んだ天皇杯2回戦ではCBとして先発したが、リーグ戦では89分から右SBとして途中出場しただけだった。
 
 念願のJ1昇格を成し遂げるこの年、横浜FCには三浦知良をはじめ、ベテラン選手が多かったため、練習試合が組まれることが少なかった。
 
 その限られた機会で太田がたまたま左SBとして出場した浦和レッズとの練習試合を、偶然にもU-19日本代表監督の吉田靖が視察した。
 
 SBを探していた指揮官の目に留まった太田は10月、初めて年代別代表に選出されたが、1年目を終える頃、横浜FCでの立ち位置は危ういままだった。
 
 太田が自身の置かれた状況をはっきりと自覚したのは翌2007年1月、クラブから命じられてブラジルのクラブに留学した時である。
 
 週に2度の試合が組まれていたが、期限付き移籍ではなく留学だったため、試合には出られない。試合間隔が短く、トレーニングは調整メニューばかりで身になる練習はまるでなかった。
 
 ある日、太田が横浜FCのホームページを覗くと、J1での戦いに備えて合宿を張るチームの写真が掲載されていた。
 
 その時、初めて気付くのだ。自分は戦力と見なされていないのではないか、と。
 
「同期の選手たちも期限付き移籍で外に出されて、事実上アウトでした。自分もチームに本当に必要な選手ならキャンプに連れていくはずだから、今年ダメだったら終わりだろうなって」

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