名古屋はなぜ降格したのか。迷走を招いた小倉体制の真実

2016年11月05日 今井雄一朗

戦術の浸透も体力作りも上手く進まなかったプレシーズン。指揮官の経験不足が大きく足を引っ張った。

J2降格が決まった最終節の湘南戦。楢崎(1番)、闘莉王(左)はがっくりと肩を落とした。写真:滝川敏之(サッカーダイジェスト写真部)

 名古屋グランパスがクラブ史上初めてJ2に降格した。久米一正社長が「名古屋を落としたことは末代までの恥」と表現したまさかの結末は、Jリーグのオリジナル10がまたひとつ負の歴史を刻んだことを意味する。
 
 特にトヨタ自動車の子会社となり、さらなるビッグクラブ化を推し進めたかったクラブにとっては最悪の結果。だが、今季の名古屋の歩みには、そうなるだけの問題が山積していた部分は確かにあった。
 
 まず触れなければいけないのは、小倉隆史GM兼監督体制の失敗だ。GMとしては今季11得点のシモビッチを獲得し、イ・スンヒも中盤のスキッパーとして重要な戦力の一端を担うなど、補強を成功させた面もあった。

 しかし滑り込みで獲得した安田理大や古林将太、最終ラインの軸として期待されたオーマンらは思うような活躍ができず、強化担当としての仕事は五分五分といったところ。新人の和泉竜司と高橋諒は小倉体制で経験を積み、A契約に到達するなど即戦力として最低限のラインは超えてもいた。
 
 問題はチーム作りの面にある。監督1年生の小倉前監督の理論体系は確立していたようだが、いかんせん、それを選手に浸透させ、チーム戦術として成立させる手法に欠けていた。つまりは指導者としての経験不足が大きく足を引っ張った。
 
 しかもチームコンセプトを一から組み上げる作業に没頭するあまり、体力作りも重要な要素であるキャンプで負荷の高い練習をあまり行なわず、開幕直前に行ったYOYOテストではトップの数字が他クラブでは平均程度という事態も招いていた。
 
 それでいてチームの戦術指導が順調に進んでいったわけでもなく、開幕から2か月ほどはまだポジティブに受け止められた内容と結果も、徐々に陰りを見せていった。
 
 その結果が18戦連続未勝利という散々な成績である。頼みの夏の補強もハ・デソン、扇原貴宏がすぐに負傷離脱する不運にも見舞われ、7月にはついに降格圏へと足を踏み入れた。もがけばもがくほど沈んでいく底なし沼のような日々に、指揮官は解決策を見いだせず、選手たちはピッチを右往左往した。

次ページ信念を曲げてまで繰り出した苦肉の守備的サッカーも不発に。

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