「ホンマにコツコツやってきた」
C大阪での新たなチャレンジに挑んでいる登里。歓喜を目指す。(C)SOCCER DIGEST
クラブの盛り上がりにつながるのであればと、率先してピッチ外の活動にも携わり、プロデューサーのごとく、チームメイトたちを巻き込んで企画を立てる。その姿から"ノボリP"の愛称で親しまれる男は、ピッチ上でも左SBとしていぶし銀のプレーを示し、今年3月には史上145人目となるJ1通算300試合も達成した。現在は左膝の手術で離脱中だが、紆余曲折を辿ってきた登里享平の歩みに改めて迫るインタビューである。
(第2回/全3回)
――◆――◆――
日本のトップカテゴリーで積み重ねてきた300という数字。酸いも甘いも経験してきたからこそ、出場数を大台に乗せられた事実には素直な喜びがある。
「感概深いですね。自分自身は、エリートではないですし、ずっと試合に出続けられた選手でもない。だからこそホンマにコツコツやってきた。そこに対する自信、誇りはあります。試合に出られない時期も、試合に出られる時期も、サブや準レギュラーであっても、チームの中心になってからでも、積み重ねてきた。
怪我も多かったなかで、300試合出場を17年かけて達成できました。普通に考えたら遅いほうだとは思いますが、それでもここまで来られたのはすごく幸せです」
高卒として2009年に加入した川崎で長年チームを支え続け、33歳で迎えた昨季、地元のC大阪へ移籍。苦しい時も、順調な時も、常に自分に矢印を向けてきた――それが登里が築いてきた道であった。
「性格的な部分なのか分からないですが、どんな状況も受け入れながら、他のことに矢印が向きそうになっても結局は自分自身だと考えて取り組んできました。試合に出られない時もそれを受け入れ、自分のため、チームのためにと、歯を食いしばってやってきたつもりです。
意識してきたのは客観的に物事を捉えること。その時々の状況を受け入れ、どうすれば良い方向に変わるかを考える。その点では試合に出られない時期、試合に出られる時期、両方を経験してこられたのが大きいですし、だからこそ今の僕があると思います」
(第2回/全3回)
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日本のトップカテゴリーで積み重ねてきた300という数字。酸いも甘いも経験してきたからこそ、出場数を大台に乗せられた事実には素直な喜びがある。
「感概深いですね。自分自身は、エリートではないですし、ずっと試合に出続けられた選手でもない。だからこそホンマにコツコツやってきた。そこに対する自信、誇りはあります。試合に出られない時期も、試合に出られる時期も、サブや準レギュラーであっても、チームの中心になってからでも、積み重ねてきた。
怪我も多かったなかで、300試合出場を17年かけて達成できました。普通に考えたら遅いほうだとは思いますが、それでもここまで来られたのはすごく幸せです」
高卒として2009年に加入した川崎で長年チームを支え続け、33歳で迎えた昨季、地元のC大阪へ移籍。苦しい時も、順調な時も、常に自分に矢印を向けてきた――それが登里が築いてきた道であった。
「性格的な部分なのか分からないですが、どんな状況も受け入れながら、他のことに矢印が向きそうになっても結局は自分自身だと考えて取り組んできました。試合に出られない時もそれを受け入れ、自分のため、チームのためにと、歯を食いしばってやってきたつもりです。
意識してきたのは客観的に物事を捉えること。その時々の状況を受け入れ、どうすれば良い方向に変わるかを考える。その点では試合に出られない時期、試合に出られる時期、両方を経験してこられたのが大きいですし、だからこそ今の僕があると思います」
他人や環境のせいにしない。常に自分と会話し続ける。そこがピッチ内外で長く輝きを放てている秘訣なのだろう。そのベースには育ってきた環境があり、アタッカーとして3年連続で冬の選手権にも出場した香川西高時代を経て、川崎に加入したことも大きかったのかもしれない。
「1年目からいきなり出られる選手もいますし、出られずに腐ってしまう選手もいる。でも僕はフロンターレは凄い選手ばかりいることは理解していたので、出られないのは当たり前かなと思い、入団しました。それにこの環境だからこそ成長できると自分で選んだからこそ、自分にその時々で何が必要か常に考えるようにしていましたね。
育った環境? 両親にはサッカーのことで、何か言われた記憶はないんですよね。一回だけ、中学の時に練習をサボって、ゲームセンターで遊んでいたのを見つかった時は、おかんに『サッカーやるか、遊ぶか、ハッキリしなさい』って言われたことはありました。その時に『サッカーをする』って決めた。だから強く言われたのもその時くらい。おとんはサッカー好きやけど、プレーに対して何か言われた記憶はないですね。
挫折? それもこれというのはなく...。小学生の時はサッカーが楽しくて、中学生ではサッカーが面白くないと感じる難しい時期も少しありましたが、それくらいですかね。両親は小、中とほとんどの試合を見に来てくれましたし、高校も主要な大会などは大阪から香川へ来てくれた。本当ありがたかったですね。
進路を自分で決めさせてもらえたことも大きかったです。中学を卒業したら大阪を出てチャレンジしたいと考えていましたし、節目の決断を自分でしてきたからこそ、良い方向に転ぶやろっていう考え方を常に持っていました。ちょっと難しい時期があったとしても、いずれかは良い方向に転ぶはずだって。そこは凄くポジティブシンキング、楽観的なのかもしれないですね」
「1年目からいきなり出られる選手もいますし、出られずに腐ってしまう選手もいる。でも僕はフロンターレは凄い選手ばかりいることは理解していたので、出られないのは当たり前かなと思い、入団しました。それにこの環境だからこそ成長できると自分で選んだからこそ、自分にその時々で何が必要か常に考えるようにしていましたね。
育った環境? 両親にはサッカーのことで、何か言われた記憶はないんですよね。一回だけ、中学の時に練習をサボって、ゲームセンターで遊んでいたのを見つかった時は、おかんに『サッカーやるか、遊ぶか、ハッキリしなさい』って言われたことはありました。その時に『サッカーをする』って決めた。だから強く言われたのもその時くらい。おとんはサッカー好きやけど、プレーに対して何か言われた記憶はないですね。
挫折? それもこれというのはなく...。小学生の時はサッカーが楽しくて、中学生ではサッカーが面白くないと感じる難しい時期も少しありましたが、それくらいですかね。両親は小、中とほとんどの試合を見に来てくれましたし、高校も主要な大会などは大阪から香川へ来てくれた。本当ありがたかったですね。
進路を自分で決めさせてもらえたことも大きかったです。中学を卒業したら大阪を出てチャレンジしたいと考えていましたし、節目の決断を自分でしてきたからこそ、良い方向に転ぶやろっていう考え方を常に持っていました。ちょっと難しい時期があったとしても、いずれかは良い方向に転ぶはずだって。そこは凄くポジティブシンキング、楽観的なのかもしれないですね」