「成功か失敗かは自分にしか分からない」。槙野智章が財産を手にした激動の2011年――欧州挑戦の真実

2016年07月22日 飯尾篤史

広島との契約延長を見送り、ヨーロッパからのオファーを待ったが声はかからない。それでも不安はなかった。

同年代の選手の成長を目にした槙野は焦りを覚え、自ら退路を断って海外挑戦を決めた。写真:滝川敏之(サッカーダイジェスト写真部)

 海外で結果を残すための大きな壁――槙野智章は2011年、移籍を果たしたケルンで苦しんでいた。

 生まれ育った広島を飛び出し、意気揚々と挑んだ憧れの地で、彼を待ち受けていたものはなんだったのか。日本へ再び活躍の場を移すまでの、波乱に満ちた1年に迫った。
 
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 槙野智章は、追い込まれていた。所属先が決まらぬまま新シーズンを迎えるかもしれないという、プロサッカー選手としての窮地に追い込まれていた。
 
 プロになったばかりの10代の話ではない。日本代表に選ばれるようになって1年と少し、その帆いっぱいに追い風を受け、順調なキャリアを送っていた2010年末、23歳の時のことだ。
 
 その年限りで満了となるサンフレッチェ広島との契約を延長せず、国内の3クラブから届いたオファーも蹴った。
 
 自らの意思で退路を断つ――。槙野はあえて自分を窮地に追い込んだのだ。
 
 すべては海外移籍のため、だった。
 
 もともと海外志向の強かった槙野が「海外に行かなければならない」という強烈な想いに駆り立てられるようになったのは、10年10月のことである。
 
 アルゼンチンとの親善試合を前に日本代表の合宿に参加した槙野は、南アフリカ・ワールドカップ後にヨーロッパのクラブに移籍した同世代の選手たちの、見違えるような姿にショックを受ける。
 
「それまで球際が強くなかった内田篤人や香川真司が『普通でしょ』って感じでバチバチやっている。長友佑都もプレーに自信が漲っていて『3か月でこんなに変わるのか』って驚いた。このままでは置いていかれると思ったんです」
 
 すぐに代理人に海外移籍の希望を伝えた槙野は、広島に戻るとまず、ロッカーの整理を始めた。移籍の準備のためである。さらに契約延長を見送り、国内からのアプローチもすべて断り、ヨーロッパからのオファーを待った。
 
 ところが、待てども、待てども、声はかからない。それでも不安はなかった。自分なら行けるという、いささか向こう見ずな自信があったからである。

次ページケルンとの契約に漕ぎ着けるも、本当の試練はその先に待っていた。

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