8年間で公式戦出場がゼロ。「引退? 考えたこともないですね」
柔和な表情を浮かべる荒谷氏。大宮U18と東洋大で次代のGK育成に注力している。写真:河野正
才気煥発な大型GKとして期待され、Jリーグ2年目の1994年に浦和レッズに加入した荒谷弘樹は、3チームに所属しながら8年間も公式戦に出られなかった。それでも「いつかきっと」の思いを秘めた苦労人は、努力だけで18年ものキャリアを刻んだ。引退後は大宮アルディージャの下部組織と東洋大で、指導者として変わらぬ努力を続けている。
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1991年8月24日、富山県岩瀬スポーツ公園球技場で全日空-読売クラブ、富士通-住友金属のJSLカップ2回戦が開催された。北陸で日本リーグの選手を見る機会などめったにない。富山一高1年の荒谷は勇んで観戦に訪れ、読売の中村忠がファンサービスでスタンドに投げ込んだミニボールを手に入れた。
「こんな貴重な体験もあり、高校2年頃からプロを意識し始めたんです。監督は教えてくれませんでしたが、5チームが興味を示してくれたと地元紙で読んだ記憶があります」
日本ユース代表では浦和で同僚になる山田暢久(藤枝東)、中島豪(国見)らと93年のSBSカップ国際ユース大会で優勝。全国高校選手権とインターハイにも出場した世代を代表する192センチのGKだった。
ひょんなことから高校2年の秋、浦和の練習に参加。3つ年上の水内猛がよく面倒を見てくれたそうで、プロなら浦和と決めていた。
加入した94年は2軍に当たるサテライト暮らしだったが、2年目は前期の全26試合と後期5節まで31試合連続でベンチ入り。しかし6節以降はまたサテライトでの調整となる。理由は怪我で離脱していた田北雄気の復帰だけではない。「不安定なプレーに加え、プロらしい体力と心構えが足りなかった。それが伴っていたら、ずっとトップチームに帯同できていたと思います」。1年目から左手首骨折や左膝前十字じん帯断裂、半月板損傷など故障が続いた。
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1991年8月24日、富山県岩瀬スポーツ公園球技場で全日空-読売クラブ、富士通-住友金属のJSLカップ2回戦が開催された。北陸で日本リーグの選手を見る機会などめったにない。富山一高1年の荒谷は勇んで観戦に訪れ、読売の中村忠がファンサービスでスタンドに投げ込んだミニボールを手に入れた。
「こんな貴重な体験もあり、高校2年頃からプロを意識し始めたんです。監督は教えてくれませんでしたが、5チームが興味を示してくれたと地元紙で読んだ記憶があります」
日本ユース代表では浦和で同僚になる山田暢久(藤枝東)、中島豪(国見)らと93年のSBSカップ国際ユース大会で優勝。全国高校選手権とインターハイにも出場した世代を代表する192センチのGKだった。
ひょんなことから高校2年の秋、浦和の練習に参加。3つ年上の水内猛がよく面倒を見てくれたそうで、プロなら浦和と決めていた。
加入した94年は2軍に当たるサテライト暮らしだったが、2年目は前期の全26試合と後期5節まで31試合連続でベンチ入り。しかし6節以降はまたサテライトでの調整となる。理由は怪我で離脱していた田北雄気の復帰だけではない。「不安定なプレーに加え、プロらしい体力と心構えが足りなかった。それが伴っていたら、ずっとトップチームに帯同できていたと思います」。1年目から左手首骨折や左膝前十字じん帯断裂、半月板損傷など故障が続いた。
3年目も4年目も出場はおろか、控えにすら一度も入れなかった。98年はJFLの川崎フロンターレへ期限付き移籍したものの、出番はなく浦和との契約も満了。転職先はJ2昇格を決めた大宮で、GKの序列は4番手だ。99~2001年までの3年間でベンチ入りが14試合あっただけ。この世界に入って8年間で公式戦出場がゼロでは、引退がちらついても不思議ではなかった。
「それは考えたこともないですね。プロになって3年くらいでフィジカルが強くなり、メンタル的にもかなり鍛えられた。大宮での3年間でも上積みできたものがあり、自分の中でいろんなものが整理できたんです。ただ9年目はそろそろやばいかな、ってドキドキしました」
そんな正念場の02年が特別なシーズンとなる。
「それは考えたこともないですね。プロになって3年くらいでフィジカルが強くなり、メンタル的にもかなり鍛えられた。大宮での3年間でも上積みできたものがあり、自分の中でいろんなものが整理できたんです。ただ9年目はそろそろやばいかな、ってドキドキしました」
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