「生きて帰れるのかな」「本当の意味のアウェイは、あの国が唯一」やはり相当強烈…元日本代表DFが北朝鮮遠征を回想「印象的なエピソードしかない」

2025年04月24日 有園僚真(サッカーダイジェストWeb編集部)

李忠成氏が話したエピソードと“答え合わせ”

栗原氏は日本代表として20試合に出場した。フル出場した2011年のアウェー北朝鮮戦は8キャップ目に当たる。写真:梅月智史(サッカーダイジェスト写真部)

 横浜で生まれ、横浜で育ち、そして今も――。栗原勇蔵氏のキャリアは、紛れもなくトリコロール一色だ。

 現在41歳の栗原氏は、中学1年生だった1996年に横浜F・マリノスのアカデミーに加入し、2002年にトップチームに昇格。それ以来CBとして、屈強なフィジカルと闘争心を前面に押し出したプレーを続け、自身15年ぶり3度目のJ1リーグ制覇を果たした2019年にユニホームを脱ぐまで、F・マリノス一筋で446試合に出場した。

 日本代表としても活躍。2006年にイビチャ・オシム監督から初招集を受けた後、主にアルベルト・ザッケローニ監督の下で代表キャリアを築き、20キャップをマークした。

 現役引退後は、F・マリノスのクラブシップ・キャプテンとして、ファン・サポーターにより近い立場で活動を続けていたが、今年からチーム統括本部のスタッフに。5年ぶりに現場に復帰し、自身の経験を還元する日々を送るなか、話を訊いた。

【#1】優勝とともに引退から5年。コロナに翻弄され――栗原勇蔵の今。なぜ再び"前線"に立つのか「自分に何ができるかを考えた」

【#2】「移籍を考えたことは"ほぼ"ない」今もF・マリノス一筋の栗原勇蔵が明かす真実。ワンクラブマン、レジェンド、横浜市、海外からオファーの話

【#3】積み重ねた約500試合。でも栗原勇蔵にとって最も印象的な試合はその中にはない。唖然とさせられたのは2010年「本当にいるんだな」

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 今回のインタビューの約3か月前。李忠成氏を取材する機会があった。その際、日本代表の話題を掘り下げるなかで、2011年11月の北朝鮮遠征に触れ、私が「変わったことはありましたか?」と尋ねると、李氏は「めちゃくちゃありましたよ!」と即答。特に「全面鏡張りで、どこを見ても自分の顔が映っていた」というホテルの部屋が印象に残っているようで、こんなエピソードを披露してくれた。

「寝ようと思っても怖くて寝れなくて。これは1人じゃ寝れないから、誰かと一緒に寝ようと。『誰にしようかな』と思った時に、喧嘩が強い人が良いなと。それも年下より年上の方が良いなと思って。川島永嗣、栗原勇蔵、この2択だったんです。

 うわ、どっち…永嗣さんより多分、勇蔵さんの方が強いなと思って勇蔵さんの部屋に行って、コンコンってやって、勇蔵さんはもう寝そうだったんですが、『勇蔵くん!ちょっと怖いから寝させて』とって言って。ちっちゃいベッドで、あんなクマみたいな人と3日間ずっと一緒に寝てましたから。勇蔵くんがいなかったら寝れなかったですね。『お前、あっち行けよ!』と言われても『怖いから無理!』って(笑)」

 この話を伝えると、栗原氏は爆笑。懐かしそうに「そうでしたね」と頷いた後、「印象的なエピソードしかないくらいの遠征でした」と切り出し、平壌空港での出来事から振り返ってくれた。

「羽田や成田みたいな施設ではないので、コンクリートの2℃くらいのところで、4時間ぐらい入国させてもらえず、洗礼を受けました。そこからスタートして、パソコンや携帯も全部没収されました。

 サッカーでは特に、『アウェイ』という言葉を使うじゃないですか。本当の意味のアウェイは、あの国が唯一じゃないかな。Jリーグでいえば、浦和レッズや鹿島アントラーズは、サポーターの熱があるし、『アウェイ感』とよく言いますが、そのアウェイとはワケが違います。国として、そもそも国交がないので、ちょっとアウェイの意味のレベルが違うなと。『生きて帰れるのかな』と思いました」

【栗原勇蔵PHOTO】F・マリノス一筋!リーグ優勝とともにピッチを去り、天国の松田氏にも…

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