【今日の誕生日】4月21日/世界の大舞台で活躍したJの外国人指揮官――トニーニョ・セレーゾ

2016年04月21日 サッカーダイジェストWeb編集部

28歳でイタリアに渡り活躍。38歳で世界一決定戦のMVP!

00年にはJリーグ、ナビスコカップ、天皇杯の三冠を達成するなど、日本サッカー史にもその名を刻んだ。 (C) Getty Images

◇トニーニョ・セレーゾ:1955年4月21日生まれ ブラジル・ベロオリゾンテ出身
 
 1993年のJリーグ開幕からしばらくは、世界中の新旧スター選手がこぞって日本に到来し、新興リーグを大いに盛り上げるとともに、世界にJリーグの存在を知らしめるのにも役立った。
 
 同時に、多くの外国人監督も到来。発展途上の日本人選手たちに多くのものを授け、日本サッカーの急成長に多大な貢献を果たしてくれた。それはJリーグだけでなく、代表チームも同様である。
 
 そんな舶来の指揮官のなかには、選手時代に輝かしい実績を残していた者も少なくなかった。トニーニョ・セレーゾもそのひとりだ。
 
 ブラジル・サッカー史、そして長くキャリアを過ごしたイタリア・カルチョの歴史においても、その名を刻んだセレーゾ。無尽蔵のスタミナを誇り、優れた技術と判断力で中盤において重要な役割を担い、機を見た攻撃参加で決定的な仕事も果たした。
 
 72年にアトレチコ・ミネイロでプロデビューを果たし、12シーズンのあいだに7度のミナスジェライス州選手権制覇を達成。そして83年にイタリアへ渡った。
 
 28歳になってからの渡欧で、ローマでは1年目でチャンピオンズ・カップ(現リーグ)決勝進出に貢献。しかし、ホームのオリンピコでPK戦の末にリバプールに敗れるという、失意を味わうこととなった。
 
 86年からはサンプドリアでプレーし、89年にカップウィナーズ・カップ優勝。そして翌シーズンにはクラブ史上初のスクデットを獲得に貢献した。
 
 この時、すでに36歳。しかし、中盤では誰よりも距離を走る彼は、ジャンルカ・ヴィアッリ、ロベルト・マンチーニらチームメイトから厚い信頼を得ており、特にマンチーニはパオロ・マントバーニ会長に、絶対にセレーゾを手放さないよう、しつこく要請していたという。
 
 92年、2度目の挑戦となったチャンピオンズ・カップ決勝でも、バルセロナに延長戦の末に敗れ、セレーゾはこの後、サンプドリアを退団し、ブラジルへ帰国した。
 
 しかし、ここでキャリアが終わることなく、37歳で加入したサンパウロでも躍動し、国内タイトルはもちろん、リベルタドーレス(92年)、トヨタカップ(92、93年)の優勝に貢献。93年のトヨタカップでは、ミランを下す原動力にもなった。
 
 94年からクルゼイロなど複数のクラブを渡り歩き、96年、ついにユニホームを脱いだセレーゾ。そんな彼の選手としてのキャリアを語るうえで、絶対に忘れてならないのが、ジーコ、ソクラテス、パウロ・ロベルト・ファルカンと華麗な中盤のカルテットを構成した82年スペイン・ワールドカップだ。
 
 優勝候補筆頭として臨み、最高レベルのファンタジー溢れるサッカーで快進撃を披露したブラジル代表において、セレーゾは「黄金の中盤」を守備面でカバーしながら、攻撃においても非凡なものを見せ続けた。
 
 4年前のアルゼンチン大会でも高評価を得た彼は、改めてその能力の高さを世界で示すも、一方で大一番のイタリア戦で失点に繋がるパスミスを犯し、2次リーグ敗退の戦犯に挙げられるなど、充実感と失望を同時に味わうこととなった。
 
 99年から指導者に転身したセレーゾは、古巣A・ミネイロ、ヴィトーリアを経て、2000年、選手時代にも売り込みをかけていたJリーグに到来。鹿島アントラーズでは、監督でありながら練習試合にも参加し、誰よりも走っていたというのは有名な逸話だ。
 
 05年までに2度のリーグ優勝の他、ナビスコカップ(2回)、天皇杯(1回)も勝ち取り、以降はブラジル、中東の複数のクラブで監督を歴任。13年から再び鹿島に戻るも、この時はメジャータイトルを獲得できなかった。
 
 2度目の指揮の際は、その采配に批判が集まり、15年7月に解任の憂き目に遭ったセレーゾ。通達を受けた際には非常に落ち込み、監督として最も長い年月(9シーズン)を過ごしたクラブとの別れを惜しんだという。

次ページ58年大会から2年前の大会まで――W杯を経験した指揮官たち。

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