「このままやったらあかんなと」本能のままにプレーしていた中学時代から一変。サッカー人生で味わった初めて挫折【パリの灯は見えたか|vol.6 藤尾翔太】

2024年02月21日 松尾祐希

「ゴールを決めるのが好きだった」

藤尾は昨季、町田で大きく飛躍を遂げた。写真:松尾祐希

 パリ五輪のアジア最終予選を兼ねたU-23アジアカップまで残り2か月を切った。与えられた出場国は3.5枠(4位の場合はアフリカ大陸・4位のギニアとのプレーオフ次第)で、その争いは熾烈を極める。

 中国、UAE、韓国と同居するグループステージを2位以内で潜り抜け、ノックアウトステージを勝ち抜けるか。メンバー争いも最終局面を迎えており、3月22日(U-23マリ代表/京都サンガスタジアムby KYOCERA)と25日(U-23ウクライナ代表/北九州スタジアム)に行なわれる親善試合を経て、大会に臨む23人が確定する。

 そのメンバーの枠を狙うのが、A代表に招集されているFW細谷真大(柏)とともにパリ五輪世代を牽引してきたストライカー・藤尾翔太だ。

 C大阪の育成組織で育ち、プロ入り後は徳島や水戸などで武者修行。昨季は町田で大きな飛躍を遂げ、体躯の強さを生かしたボールキープとゴール前に入っていく迫力を武器に8ゴールを重ねた。

 Jリーグの舞台で立ち位置を確立しつつあるが、その一方で代表では国際舞台を経験していない。2021年のU-20ワールドカップはコロナ禍の影響で中止となっており、世界の強豪国に真剣勝負を挑める舞台は未知の世界。新たな扉を開くべく、研鑽を積むストライカーにルーツを振り返ってもらいつつ、パリ五輪への想いを聞いた。

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 2001年5月2日に生を授かった藤尾は生粋の大阪人。当時、C大阪がホームスタジアムとしていた長居陸上競技場の近くで生まれ育った。

 阪南大高でキャプテンを務めた父親や、立正大淞南で高校サッカー選手権に出場した経験を持つ4歳上の兄の影響で幼少期からボールを蹴っていたなかで、本格的にサッカーを始めたのは小学校3年生の時。兄の後を追うように育成に定評があるリップエースSCジュニアに加わると、早い段階からストライカーのポジションでプレーしていたという。

 本人は「フォワードを任された経緯はあんまり記憶がないけど」と苦笑いを浮かべながら当時を振り返ったが、「ゴールを決めるのが好きだった」という記憶は脳裏に焼き付いている。

 ゴールを決める楽しさを知り、最前線で誰よりもネットを揺らして瞬く間に頭角を表した一方で、当時のプレースタイルは現在のような身体の強さを生かしたモノではない。今以上にゴールを奪うプレーに特化していたという。

「小学校の時は案外ひとりでいけてしまうので、個で打開するゴールが多かった」

 リップエースSCのジュニアユースに昇格した藤尾は、FWとして順調に成長を遂げていく。

「中学生に入ってから背後に抜ける動きを学んだ。センターバックやボランチが出てくるときにどう動き出すか。そんなに足が速いわけではなかったので、そこはかなり鍛えられた」

 中学3年間を通じて、ゴールから見放された時期はあまりなかったという。

「本能のままに動く。みんながボールを僕に集めてくれたし、実際に自分が一番ゴールを奪っていた。周りが僕の特徴を理解してくれていた環境だったので」
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