異例の抜擢で代表のスタッフ入り。98年フランスW杯出場に尽力した四方田修平。今も励みになっている加茂周の言葉

2024年01月27日 元川悦子

習志野高時代にアルゼンチン遠征

横浜FCで指揮を執る四方田監督。偉大な先達との出会いで多くを学んだという。写真:永島裕基

 セレッソ大阪の小菊昭雄監督、FC町田ゼルビアの黒田剛監督など、今のJリーグにはJリーガー経験のない指揮官が何人かいるが、横浜FCの四方田修平監督もその1人だ。

 習志野高から順天堂大、筑波大の大学院を経て、Jリーグで指導者キャリアをスタートさせた彼には、自身の原型を形作った大きな出会いがいくつかあったという。

 最初に出会った偉大な指導者と言えるのは、習志野高時代の恩師・本田裕一郎監督(現・国士舘高テクニカルアドバイザー)。市原緑高時代に宮澤ミシェルや松橋力蔵、習志野高時代に玉田圭司らを育てた名将は、70代半ばになった今も現場に立ち続けている。

「本田先生は学ぶ姿勢がものすごかったし、新しいものをどんどん取り入れて、選手に提供していこうという意欲が頭抜けていましたね。

 僕が習志野にいたのは1980年代後半でしたけど、まだJリーグもない時代に、高1でアルゼンチン遠征に行かせてもらったのは、本当に画期的な出来事。僕自身も大きなインパクトを受けましたけど、その時代の最先端を選手に落とし込んでくれたことには感謝しています。

 その一方で、厳しさも人一倍あった。人間性や発言、態度などに関しては特にそうでした。自分は選手としてはそれほど才能があるわけではなかったけど、頑張れば頑張るほど認めてもらえた。それも大きかったですね。

 僕は札幌で長くユース年代を指導しましたけど、その経験は確実に生きたと思います」と、四方田監督はしみじみと語っていた。
 
 確かに札幌ユースで指揮を執っていた頃を振り返ると、西大伍(いわて)、深井一希、荒野拓馬(ともに札幌)ら個性豊かな面々が数多くいた。彼らのキャラクターや才能を認め、背中を押し、ストロングを伸ばそうという度量が指揮官にあったからこそ、プロとして活躍できた選手が多かったのだ。それは小川航基(NEC)にしても同様だと言っていい。

 四方田監督が大きな影響を受けた次なる人物は、日本サッカー協会(JFA)の田嶋幸三会長だろう。筑波の大学院時代、田嶋研究室に在籍した彼は小野剛・JFA技術委員会副委員長、影山雅永・同ユースダイレクターらとともに学び、サッカーへの見識を深めた。

 田嶋会長がJFAの強化にも携わっていた関係で、加茂周・岡田武史の両監督時代の日本代表のテクニカルスタッフを務めることにもなったのだ。

「田嶋さんは指導教官であるのと同時に、社会に出て初めての上司でした。『先生とはこうあるべき』という既成概念を覆した人というか、すごくフランクに接してくれて、『言うべきことは言わなきゃいけない』と同じ目線で接してくれました。仕事を離れたオフの時は、本当に家族のように大事にしてくれて、物心両面でお世話になった。僕にとっては模範となるリーダー。今、こうして現場のトップに立っていますけど、田嶋さんから学んだマネジメントがすごく役に立っています」

 まだ20代だった四方田監督が、日本代表に関わるというのは異例中の異例。現在、カタールで開催されているアジアカップで、筑波大と東京大の学生が参加して分析グループが結成されているが、当時の彼はまさに先駆者だったのだ。

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