黄金のカルテットを追いかけた遠藤保仁――。極めて異質な「お先にどうぞ」の精神、導き出した最適解は欧州よりJだった

2024年01月18日 加部 究

「中田と中村は攻撃的に、稲本と小野が主に守備的に」

長年に渡り日本代表を牽引した遠藤。歴代最多の152試合に出場した。(C)SOCCER DIGEST

 遠藤保仁が生を受ける1980年代は、国際的にもMFに焦点が当たり始める時期だった。
 
 1982年にスペインで開催されたワールドカップ(W杯)では、ジーコ、ファルカン、ソクラテス、トニーニョ・セレゾで構成されるブラジル代表の黄金のカルテットが美しい創造性を発揮し、頂点には届かなかったのに王国で伝説となった。

 この大会では同じように中盤にタレントを揃えたフランスがベスト4に進出。やがてバロンドールを3度受賞するミッシェル・プラティニを筆頭に、アラン・ジレス、ジャーン・ティガナ、ベルナール・ジャンジニ(後にルイス・フェルナンデスに交代)を擁すフランスも、2年後のEUROを制し、W杯も2大会連続でベスト4と黄金期を満喫している。
 
 1980年代後半に入るとセリエAに世界中の名手が集結していくのだが、憧憬の舞台となるカルチョの国イタリアは、ロベルト・バッジオ、ジャンフランコ・ゾラ、アレッサンドロ・デルピエーロ、パオロ・ディカーニオ、フランチェスコ・トッティなど立て続けに天才肌を輩出していく。

 もちろん1980年代は、『キャプテン翼』も世界規模の人気を獲得していくことになるので、日本のサッカー少年たちが中盤でゲームを支配するエースの座を夢見て技を磨くのは必然とも言えた。
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 2002年の日韓W杯を終えると、日本サッカー協会は次期日本代表監督にジーコを指名。かつてブラジル代表で10番を背負い黄金のカルテットを牽引したスーパースターは、日本代表でもジャマイカとの初陣から夢のカルテットをピッチに送り出した。前日会見の席でジーコ監督は話している。

「中田英寿と中村俊輔は前で攻撃的な役割を、稲本潤一と小野伸二が主に守備的な仕事をする。82年ワールドカップでのブラジル代表のミッドフィルダーと形は似ているが、それぞれ特徴が異なるので、そこに縛られずに誰かが前に出たら、代わりに誰かが下がるというように、自由に持ち味を発揮して欲しい」
 
 実はジーコ監督は、就任早々に中田と中村を個別に呼び、彼らを核として活動をしていくことを告げていたという。

 また、前任の日本代表監督だったフィリップ・トルシエは、1999年にU-20W杯で準優勝。1979年生まれの中心メンバー(遠藤は80年1月生まれ)は黄金世代と呼ばれることになるが、ジャマイカ戦にスタメン出場をしたカルテットは、既に全員が欧州進出を果たしていたこともあり、彼らを追いかける立場にある遠藤が初めてフル代表に招集されるのは翌月のことだった。

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