「ちゃんと取材してください」駆け出し記者の襟を正してくれた16歳・小野伸二の金言【秘話コラム】

2023年09月28日 川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

雨の東海大会で、雷に打たれたような衝撃を受けた

高2の冬、清水商高の校庭に佇む小野。貴重な学ラン姿だ。(C)SOCCER DIGEST

 堪えようのない寂しさがある。つねに拠り所として心のどこかにあった"鉄板の娯楽"が、消えてなくなってしまう気がするからだ。「相棒として戦ってくれた"足"がそろそろ休ませてくれと言うので」って…。なんとも粋な、小野伸二らしい言い回しではないか。

 筆者が「週刊サッカーダイジェスト編集部」の門を叩いたのは1995年の夏だった。得意の語学を活かして日本のファンに海外サッカーの魅力を届けたい。天井知らずのモチベーションがあった。

 しかし、入社して3か月後に編集長に命じられた大役は「高校サッカー担当」だった。完全な門外漢で適任ではないと感じたが、若さと機動力が評価され、取材の基本をそこで学べという意味も込められていたようだ。それでもいきなりキャリアの岐路に立たされたようで、先輩の女性記者に愚痴ったところ、「馬鹿だね、なんも分かってない。超ラッキーなんだよ。この世代やばいんだから」と怒られた。

 1996年度の新学期を前に春のフェスティバルに通い、慌ただしい日々がはじまった。そして5月、東海大会で雷に打たれたような衝撃を受ける。清水市立商業高校(現清水桜が丘高)の2年生、小野伸二がピッチで躍動していた。

 雨でぬかるんだグラウンド。16歳の攻撃的MFがボールを足裏で転がすように運ぶドリブルで、局面を前に進めている。キーパーからの強烈なライナー性の球をピタリと足下に収めると、ノールックからのスルーパスで上級生のFWを自在に操っていた。「うわっ」「おいっ」と思わず声が漏れ、彼がボールを持つたびに気づけば腰が自然と浮き、興奮で喉がカラカラになったのを覚えている。

 すっかりハマってしまい、それからは小野詣でを繰り返した。インターハイ、全日本ユース(現高円宮杯U-18プレミアリーグ)と取材を重ねるなか、顔見知りになった小野がふと、「お名前はなんでしたっけ?」と訊いてきた。伝えると、試合後のクールダウンで早歩きをしながら何度か「サッカーダイジェスト」と名前を呟いて、「はい覚えた」と微笑む。人懐っこい青年である。その後黄金世代の連中は、筆者がナイナイの岡村隆史に少し似ていたところから、誰も彼もが「岡村さん」としつこくいじるなかで、小野と中田浩二だけはちゃんと本名で呼んで接してくれたものだ。
 
 そして、小野は9つ年上の新米記者にこう投げかけた。

「(年代別の)代表に選ばれているからといって、いい選手とは限らない。そうじゃなくてもいい選手って本当にいっぱいいるんです。うちのチームにだっているし、静岡だけでもたくさん。ちゃんと取材をして、そんな選手をひとりでも多く見つけて、紹介してほしいんです」

 深く染み入る言葉だった。当時の小野はさすがに全国的な知名度こそまだなかったが、静岡のサッカー関係者やメディアの間では、すでに超がつくほどの有望株だった。自分ばかりが過度に取り上げられ、チヤホヤされることに違和感を感じていたのかもしれない。高2の若者に「プロならば本質を見極めろ」と襟を正されたようで、その後四半世紀に及ぶ記者キャリアの基本指針となった。

 全国津々浦々、さまざまな大会や学校を訪れるようになった。高校やクラブユース、JFAなど指導者の方々とも数え切れないくらいの交流を図り、Jクラブのスカウトたちとも情報交換を繰り返した。時間があれば中学や大学の現場にも行った。丸5年間担当したなかで、逸材たちを書き込んだスカウティングノートはおよそ30冊に及んだ。

 例えば、清水商高で小野の同級生だった平川忠亮がいる。キャリアを通じて日の丸とはほぼ縁がなかったが、右サイドで異彩を放つ名ダイナモだった。筑波大から浦和レッズに入団し、レジェンド級の足跡を残したのは語るべくもない。ほかにもガンバ大阪ユースの大黒将志と二川孝広、習志野高の玉田圭司、ジェフ市原ユースの佐藤勇人&寿人、韮崎高の深井正樹など自分で見極めた"推し"がたくさんでき、彼らはそれぞれのキャリアで大輪の花を咲かせていった。

 小野の言葉がなければ、ブレイク後の彼らしか取材していなかったかもしれない。

【PHOTO】現役引退を発表した小野伸二、波瀾万丈のキャリアを厳選フォトで振り返る 1997~2023

次ページホーイドンクも驚きを隠せない。「ドンピシャだぞ。信じられるか?」

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