トルシエ政権誕生から25年――。なぜ日本サッカーは“白い呪術師”に未来を託したのか

2023年09月10日 石川聡

【今日は何の日?】1998年9月10日:日本代表のトルシエ監督就任がJFA理事会で正式承認

日本代表とトルシエ監督(左端)が駆け抜けた4年間。まさにジェットコースターのような日々だった。(C)Getty Images

 あれからもう四半世紀が経った。

 いまから25年前の1998年9月10日、日本と韓国が共同開催する2002年のFIFAワールドカップ(W杯)を目ざす日本代表に、フランス人のフィリップ・トルシエ監督が決定した日である。この日に行なわれた日本サッカー協会(JFA)理事会で正式に承認された。

 この年にフランスで開催されたW杯で、日本は念願の初出場を果たした。しかし、夢舞台では厳しい現実が待っていた。アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカと組んだグループステージで3戦全敗。大会終了後に岡田武史監督はその座を退いた。

 JFAは後任監督探しが急務となった。4年後に地元で開くW杯。フランス大会出場によって、予選免除の開催国だからこそ初出場できた、と揶揄されることもなくなった。ただし、開催国は予選を免除される。このときまで開催国がグループステージ、あるいは1回戦で敗退した例はない。ノックアウトステージ進出は最低限のノルマと言えた。

 その重責を担う候補の筆頭は、フランス人のアーセン・ヴェンゲルだったという。1995年に名古屋グランパスエイト(現名古屋グランパス)の監督に就任すると、前年のJリーグで12チーム中11位だったチームを3位に躍進させる手腕を発揮し、最優秀監督賞を受賞。天皇杯では初優勝に導いた。JFA関係者はその技量を間近で見知っていたわけだ。

 当のヴェンゲルはと言えば、1996年シーズンの途中で名古屋を離れ、イングランド・プレミアリーグのアーセナルを指揮することになった。その1996-97シーズンこそ3位に終わったものの、翌シーズンにはプレミアリーグを制覇し、FAカップとの二冠を成し遂げた。JFAが日本代表監督就任への打診をしたのはそのようなときで、まさに新天地での冒険に手応えをつかみ始めていたヴェンゲルは、アーセナルとの契約を理由に断った。
 
 方向転換せざるを得なくなったJFAは、フランスサッカー連盟に相談を持ち掛けた。これを受けた同連盟からは、候補者リストが提示された。その中にあったひとりがトルシエだった。JFAは、彼と親交のあったヴェンゲルの助言も仰ぎ、アフリカ各国の代表やクラブで実績を残して「白い呪術師」と異名を奉られたフランス人に、日本代表を託すことにした。

 トルシエは8月下旬に来日し、31日にJFAで記者たちに「2002年(のW杯)につながる仕事がしたい」と述べた。田嶋幸三JFA技術委員会副委員長(現、同会長)も「組織をしっかりさせるという点で、(JFAの意向と)同じ方向性を感じた」と、その指導力に期待を込めた。

 トルシエ監督の正式な誕生は、前述のように9月10日のJFA理事会だった。契約期間は2000年6月まで。シドニーオリンピックを目ざすU-21日本代表の指揮も兼任する。オリンピックは同年9~10月の開催だが、予選突破の場合は「契約延長で合意している」(森健兒JFA専務理事)。監督を継続することになれば、日本代表が出場する同年10月のAFCアジアカップでの4強入りもノルマであったという。

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