その日暮らしのバス運転手から名門ミランのエースへ――。バッカの「知られざる波乱万丈伝」

2016年02月04日 下村正幸

練習場までの交通費をバス運転手の仕事で稼ぐ。

アトレティコ・フニオール時代のバッカ(左)。子供の頃から憧れたこのクラブで、A代表入りを果たすまでに成長を遂げた。(C)REUTERS/AFLO

 南米の貧しい家庭で生まれ育った少年の多くが追い求める夢――。それが、プロフットボーラーである。2015年夏に28歳(現在29歳)で名門ACミランの門を叩いたカルロス・バッカも、例外ではなかった。
 
 幼少の頃にはすでにボールを蹴り始めていたというバッカは、しかしなかなか芽が出ず、20歳を過ぎてもなお、国内2部リーグのバランキージャというクラブで燻っていた。家庭は貧しく、フットボールの稼ぎだけでは不十分で、並行してバス運転手のアシスタントをしながら生計を立てていた。
 
 当時を振り返り、本人はこう語る。
 
「エスプレソ・コロンビア・カリベ(という会社)でバスを運転しながら、料金の収集係を務めていた。稼ぎは1日で3000ペソから5000ペソ(約120~160円)。ウチはとにかく貧しかったから、練習場に通うための交通費をそうやって稼いでいたんだ。20歳になってからもね。すでにプロフットボーラーになる夢を諦めていてもおかしくない年齢さ。扉はとっくに閉まっている。そう思った時だってある」
 
 そうした苦境を乗り越えるうえで支えになったのが、両親の存在だったという。
 
「幼少時代は辛い思い出しかない。毎日生きていくので精一杯だったから。でも、そんな環境のなかでも両親は、人間性をしっかり養わせようと、教育を蔑ろにしなかった。僕がこうやってフットボーラーとして大成できたのは、ふたりの支えがあったからこそだ」
 
 母国の2部リーグで悪戦苦闘を続けるバッカに訪れたフットボーラーとしての最初の転機が、ベネズエラのクラブへのレンタル移籍だった。新天地は当時2部のミネルベン・ボリバル。ベネズエラ・リーグはコロンビア・リーグより格下の位置付けだったが、なんとしても浮上のきっかけを掴みたかったバッカに、そんな事情は関係なかった。
 
 そして、この一大決心が吉と出る。瞬く間にチームにフィットし、29試合に出場。12得点を叩き出してチームの1部昇格に貢献し、ストライカーとしての才能の片鱗を垣間見せたのだった。
 
 自信を深めたバッカは、1部昇格を目指していたバランキージャに復帰。そこで19試合・14ゴールの大活躍で得点王に輝き、バランキージャのトップチームにあたるアトレティコ・フニオールに引き抜かれる。子供の頃から憧れていたチームへの入団を果たしたバッカは、新たな挑戦というモチベーションを原動力に、1部の舞台でもゴールを量産。その活躍が認められ、2010年8月にはコロンビア代表デビューも飾った。
 
 結局、アトレティコ・フニオールには3シーズンに渡って在籍。最後の1年は、出場した全コンペティションのトータルで32得点を荒稼ぎした。

次ページベルギーに渡って2年目にして得点王に輝く。

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