【浦和】五輪、W杯…”世界”を経験せずに引退した鈴木啓太の夢の行方

2016年01月22日 寺野典子

不整脈の発覚――。若い選手ならば手術し、完治を目指しただろうが、33歳の鈴木にその決断は大きすぎた。

2014年の最終節、自身のパスミスによって逆転弾を奪われた鈴木は、試合後にがっくりと肩を落とした。写真:田中研治

「浦和の男で始まり、浦和の男で終わる」

 2015年限りで、浦和退団が決まっていた鈴木啓太は、お別れセレモニーで、そう挨拶し、現役引退を表明した。移籍の噂もあり、実際にオファーも届いていた。2015年シーズン、鈴木はリーグ戦4試合・98分しか出場していない。もちろんナビスコカップやACLでの起用はあったが、チームにおける自身の立場が大きく変わったことを自覚するのは簡単だったはずだ。
 
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 2014年11月3日の横浜戦の前半、鈴木の身体に違和感が生まれた。心臓の動きが芳しくなく、ハーフタイムにピッチを離れる。その後の検査で不整脈が見つかる。若い選手ならば、手術をし、完治を目指しただろうが、33歳の鈴木にその決断は大きすぎた。
 
 幸い、いくつか服用した薬で抑えられることが分かり、トレーニングは可能になった。ただ、シーズン終盤の優勝争い真っ只中での離脱。「チームが勝ちさえすればいい」と考える年齢になった鈴木は、すべての判断を指揮官に委ねた。
 
 残り3試合。追いかけてくるG大阪との直接対決となった32節は0-2、苦手な鳥栖とアウェーで戦った33節は1-1のドロー。そのどちらにも勝ちきれなかった。そんな大一番で、チームの助けに慣れない。不甲斐ない自分を責めただろう。
 
 練習では問題はない。しかし、公式戦、しかも優勝を争うゲームのスピードに適応できるか、心臓が更なる危険にさらされるのではないか? そんな不安があったに違いない。
 
 そして、首位G大阪と勝点で並んだ状態で最終節の名古屋戦を迎えた。鈴木は86分に1-1の状況で、ピッチに立った。この試合の結果で、優勝シャーレの行方が決まる。状況もやるべきことも、すべて鈴木は分かっていたはずだ。
 
 しかし、ひとつの鈴木のパスミスから、名古屋に逆転弾を許してしまう。ドローで試合を終えたG大阪が優勝を決め、浦和はわずか勝点1差でそれを逃した。
 
 ここで引退を考えるのではないか? ふと私のなかにそんな言葉が沸いてきた。それでも、2014年シーズン最後のセレモニーで、スタンドから「啓太! 顔をあげて」「お前だけが悪いわけじゃない」と温かい声が数々降り注いできた。「自分は、彼らの夢を背負っているから戦えてこられたんだ」と身を持って味わえたと後に語った。
 
 浦和の一員になりながらも、サポーターとの距離感に悩んだこともある。
 
 試合後感が悪くなくても、勝てなければ罵声を浴びる。プレーヤーとしての感覚や価値観と、サポーターとのそれが、常に同じとは限らない。それを自覚することもまた、プロサッカー選手の"仕事"と割り切るスタンス、生き方を身につけていた。
 
 しかし、2014年の最終戦を経験したことで思い直した。
「僕らはサポーターがいてくれるから、走らせてもらえる」
 
 新しいクラブでプレーすることで、応援してくれた方々への恩返しになるかもしれない。出場機会のない1年間を通し、「まだやれる」という想いもあったに違いない。それでも、鈴木は浦和で選手生命を終えることを決心した。
                                         
 不整脈を言い訳にしてしまうのではないかという、かすかな危惧もあったかもしれない。でも、それは鈴木の人生観を照らしてみれば、許されないことだったのだろう。心から愛すべき人たち、自分へたくさんのエールをくれた人たちのために、勝利ではない、サムシングを届けたい。そういう想いに至ったに違いない。

次ページ初めての世界大会。ドアの向こうになにがあったか。

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