「チームが勝つから自分の記録も生まれる」ジーコが語る開幕戦3得点の意義「鹿島アントラーズの歴史がそこからスタートした」

2023年05月13日 渡邊裕樹(サッカーダイジェスト編集部)

来日当初に苦戦したトレーニング場探し。野球場の隅で警戒しながら…

30周年を記念して発売されたJリーグ開幕時の復刻ユニホームを掲げるジーコ。写真:鈴木颯太朗

 1993年に発足したJリーグの草創期を選手として彩ったジーコ。鹿島アントラーズで引退後も、代表監督をはじめ様々な形で日本サッカー界に関わり続けてきた。そんなレジェンドが語るJリーグの30年と進むべき未来とは……。
※本記事はサッカーダイジェスト2023年5月25日号から転載、一部修正。
【PHOTO】おかえり!ジーコ氏が囲み取材を実施。報道陣にクラブアドバイザーについて語る!

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 93年5月15日に幕を開けたJリーグは、今年で30周年の節目を迎えた。「日本サッカーの水準向上及びサッカーの普及促進」「豊かなスポーツ文化の振興」などを理念に掲げるリーグにおいて、前身の住友金属工業蹴球団時代から連なる鹿島アントラーズの歩みは、後世に残すべき大きな歴史と言えるだろう。

 Jリーグ開幕を翌年に控えた92年に日本リーグ2部で2位に入り、1部昇格。Jリーグのオリジナル10入りを果たすと、茨城県鹿島町をホームタウンとする地方クラブはその後、周知の通り躍進を遂げた。

 リーグ元年の第1ステージ制覇にはじまり、2000年の国内3大タイトルの独占や07年からの3連覇など、達成した偉業は数知れず。獲得したタイトルは実に、国内最多の20を数える。

 その鹿島の"創造主"とも言うべき存在が、ジーコだ。22年から務めるクラブアドバイザーの業務の一環として日本を訪れたレジェンドに、Jリーグの30年やクラブへの想いを訊いた(取材は4月26日に実施)。
 
 クラブハウスに現われたジーコは、スタッフたちに気さくに声をかけながら、笑顔でインタビュー会場にやってくると、過去を懐かしむように口を開いた。

「国内メディアでサッカーが盛んに取り上げられるようになって以降、各クラブの環境は大幅に整いました。選手、スタッフ、審判、それぞれがプロとしての役割を果たしてきた結果でもあるでしょう。Jリーグの発展度合がいかほどかは、この30年間の歩みを見ても明らかです」

 そう語るや、来日当初のエピソードへと話を展開させる。

「当時、住友金属は日本リーグ2部で戦っていました。私は東京に住んでいて、鹿島と往復する日々でしたので、東京の住居近くでもトレーニングできる場所を探しましたが、すぐには見つかりませんでした。

 あの頃の日本のスポーツと言えば、野球を筆頭に、テニスやゴルフなどが人気で、サッカーはまだマイナーの域を出ませんでした。そのため野球場の限られたスペースでのトレーニングを強いられたほどです。しかも『ボールが飛んでくるから危ないぞ』と言われ、注意を払いながらトレーニングしたのを覚えています。

 それが、2006年に一時的に日本を離れる時には、都内の同じ場所で10以上のサッカーコートが作られていました。その事実ひとつとっても、サッカーが日本にどれだけ浸透したかが分かりますよね。若い人や子どもたちが興じるスポーツの選択肢のひとつになったと、そう実感しました」
 

次ページ3得点は当たり前。伝説のゴールよりも大切だったのは…

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