【都並敏史が語るJ30周年 #1】バブルで浮かれるなか、忘れられない加藤久の言葉。破格の年俸提示には「本当に驚いた」

2023年04月19日 元川悦子

よみうりランドの嘱託社員扱いでプレー

“J元年”を知る都並が30年を振り返る。写真:元川悦子

 1993年5月15日、東京・国立競技場で行なわれたヴェルディ川崎(現・東京V)対横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)で幕を開けたJリーグも、今年で30周年。当時は10しかなかったクラブが今では60まで増え、全国各地に広がった。

 さらにはその下のジャパン・フットボール・リーグ(JFL)や地域リーグにもJ参入を目ざすチームが続々と現われており、日本のサッカー文化の拡大が顕著となっている。

 その記念すべき開幕戦にヴェルディの一員として出場した都並敏史(現・ブリオベッカ浦安監督)も、環境の大きな変化を感じる1人だ。

「サッカーがマイナー競技からメジャー競技になり、その舞台に立てたことを心から感謝しましたし、今もサッカーの一員として仕事をいただけて、貢献できる立場にいることが本当に有難いです」と、61歳になった指揮官はしみじみと30年間を噛みしめていた。

 そんな彼がJ発足当初を振り返ると同時に、日本サッカーを取り巻く様々な変化を語った。

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「Jリーグ発足に向けて世の中のムードが大きく変わり始めたのは、92年のヤマザキナビスコカップでした。試合に来る観客の数が急増し、取材に来る記者の数も信じられないほど増えた。そして僕らの給料もドーンと上がりましたね」と都並は笑う。実際、J発足直前から直後にかけての選手の待遇の激変は想像を絶するものがあったという。

 80年に読売クラブ入りした都並は、91年までよみうりランドの嘱託社員扱いでプレーしていた。初任給は6万円で、8万円、12万円と上がっていったが、普通の会社員と同レベルか少し高い程度だったようだ。

「91年末にプロ契約を締結しましたが、その時点では年俸ベースで1000万円に行くか行かないかというレベル。個人事業主になるということで、巨人ジャイアンツ担当の税理士がクラブに派遣されてきて、確定申告や税金に関するレクチャーを受けることになったんですけど、最初は戸惑うことばかりでした。

 そこから1年後の92年末の契約更改時に年俸3000~4000万円と提示され、本当に驚いた。浮ついた状態になりました(笑)。なかには1億円という仲間もいたし、周りからもチヤホヤされて、本当に地上から10センチ浮いた状態でプレーしていた感覚でしたね」と、都並は異様な熱気に包まれた当時を述懐する。

 まさにお祭りムードに他ならない。そこで苦言を呈したのが、日本代表レジェンドのDF加藤久。彼は都並らにこう言ったという。

「この追い風が危険なんだ。地に足を着けてやらないとダメなんだ」と。

「みんながJリーグブームに浮かれているなか、久さんの冷静な発言はすごく心に残りました。その通り、3~4年後くらいにはバブルが弾け、経営難に陥るクラブが出てきた。読売も親会社の撤退やチーム内のゴタゴタがあって、下降線を辿っていきました。やっぱり久さんが言うように、右肩上がりの時こそ、地道な努力と歩みを忘れてはいけない。そう痛感させられましたね」

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