“イタリアの英雄”パオロ・ロッシの数奇なサッカー人生。八百長疑惑で2年間の出場停止→復帰後3試合でW杯制覇&得点王に

2021年10月09日 パオロ・フォルコリン

78年のW杯では3ゴール

82年のW杯でイタリアを優勝に導く活躍を見せ、一躍英雄となったロッシ。(C) Getty Images

 私の携帯の住所録には二つの電話番号が登録されている。パオロ1とパオロ2。パオロ・ロッシの携帯と家の番号だ。もうこの番号に電話をかけることはないのだが、私がそれを消すことはないだろう。パオロとはただの記者と選手いう間柄ではなく、友人だった。友人のことは決して忘れない。

 昨年12月、明るい色の木の棺に納められた彼は、1982年にともに世界を制した仲間たちの手によって永遠の旅路に着いた。パオロ・ロッシ、いや"パブリート"(ロッシの愛称)の葬儀は心が痛むものだった。彼の妻と8歳と11歳の二人の娘は棺の前に膝をつき、会葬者全ての涙を誘った。

 しかし涙の痕が残る友人たちも、最後に彼を拍手で見送ろうと集まって来た人々も、その他大勢のイタリア人にとっても、一番に思い出すのは、あのスペインの空の下で輝いていた彼の笑顔だろう。

 パオロ・ロッシはフィレンツェに近いプラトーという町で生まれた。他の少年と同様に地元のチームでプレーしていたが、16歳の時にユベントスのスカウトの目にとまった。しかし、彼の両親はトリノ行きに大反対した。実は数年前に兄のロッサーノも、全く同じ経緯でユベントスに引き抜かれたのだがうまくいかず、突き返された形で家に戻ってきていたのだ。

 ただユベントスも熱心で、1500万リラで契約をし、パオロはトリノへ向かった。しかし彼の時はすぐには来なかった。ユースチームで2年間プレーする間に、3度も膝を手術。しかし、頑固な彼は決してへこたれず、18歳にならないうちにトップチームデビューを果たす。

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 ただ特に目立った活躍はできず、75年にはコモにレンタルされるが、ここでも鳴かず飛ばず。ユベントスは、スピードはあるが華奢なこの選手を育てるのは無駄骨だと考え始め、彼のパスの半分をヴィチェンツァに売り渡した。

 しかし、そのヴィチェンツァの環境が、どうやら彼には合っていたようだ。1976-77シーズン、セリエBで21ゴールを決めてセリエA昇格に導くのだ。そして翌年のセリエAでは、24ゴールを挙げ、ユベントスに次ぐ2位躍進の原動力となった。

 この1978年は、パオロにとって大きな転換の年だった。当時のイタリア代表監督エンツォ・ベアルゾットが、彼をアルゼンチン・ワールドカップのメンバーに招集。当初パオロは控えだったが、一旦チャンスをつかむと3ゴールを決め、イタリア中を沸かせた。

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