「なぜ自分は出られなかったのか」。負けず嫌いな久保建英を象徴するエピソード【東京五輪代表のルーツ探訪・前編】

2021年07月21日 白鳥和洋(サッカーダイジェスト)

「1回、建英をレギュラーから外したことがあって…」(京増雅仁/当時FC東京U-15むさしコーチ)

16年のJユースカップ3回戦のひとコマ。久保は名古屋を相手に確かな技術を見せつけた。写真:(C)J.LEAGUE

 東京五輪で悲願の金メダル獲得を目指すU-24日本代表。全世界注目の戦いに挑む彼らは、この大舞台に辿り着くまでどんなキャリアを歩んできたのか。

 ここでピックアップする久保建英は13歳の時にクラブのある違反行為によりFCバルセロナ(下部組織に在籍)を退団し、失意の帰国を余儀なくされた。しかし、その後に在籍したFC東京では最高の仲間にも恵まれ──。非常に濃密で、掛け替えのない4年間を過ごすことになる。

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 2014年4月、18歳未満の外国人選手獲得・登録でFCバルセロナの違反が発覚。対象選手のひとりだった当時12歳の久保建英(バルサのカンテラ=下部組織所属)は、FIFAの規定により4年間の公式戦出場停止処分を科せられた。結果、翌15年3月にバルサ退団を決意し、失意の帰国を余儀なくされた。

 ショックの大きさは想像に難くない。事実、それから4年後──19年6月29日のFC東京対横浜F・マリノス戦のあとに行なわれた壮行セレモニー(同年6月14日にレアル・マドリ―への移籍が決定)で、本人も「(帰国後、)最初はあんまり練習とかも行きたくなくて結構辛い時期もありました」とコメントしている。

 しかし、久保は壮行セレモニーで同時にバルサ退団後の所属先となったFC東京に感謝の意を述べた。

「(FC東京U-15)むさしに入って、そこで皆が仲良くしてくれて、飛び級でユースに上がり、ユースの皆も仲良くしてくれた。そのあとトップチームに上がって、そこでも皆に助けてもらって今の自分がある」

 仲間がいたから──。15年5月に久保(13歳)が入団したFC東京U-15むさしで当時コーチだった京増雅仁も、「建英はチームメイトに恵まれた」と述懐している。

「アンダー世代の代表などで一緒にやっていた選手もいて、チームに溶け込むのは割と早かったです。メディア対応ではしっかりした印象の建英も、仲間内では子どもらしいというか、飾らない性格で誰とも気兼ねなく話していました。入団した当初からひとつ上の学年の子と練習させることが多かったですが、そこでも物怖じせずプレーしていました」
 
 バルサの下部組織でやっていただけあって、トータル的な技術は秀逸。当然ながらフィジカル的な見劣りはあったものの、「年上の子のグループに入れてもテクニックはトップレベルだった」(京増)。サッカーと向き合うメンタリティも備えていて、ピッチ上では年上でもお構いなく呼び捨てで呼んでいた。

「誰にも負けたくない。絶対にプロになるという意思の強さが建英にはありました」(京増)

 大の負けず嫌い。そんな久保のスタンスを象徴するエピソードを京増は教えてくれた。

「1回、建英をレギュラーから外したことがあって。その時、本人に呼ばれてこう言われたんです。『なぜ自分は出られなかったのか』って。サッカーをよく知っていて、常に試合に絡みたいという欲求が彼を突き動かしたのでしょう。結局、なんだかんだ1時間くらい話しました。サッカーに懸ける想いは本当に強かったですよ」

 この時、久保はまだ中学2年生である。遊びたい盛りの年頃にも関わらず、その心には"信念"という太い柱が立っていた。

「一般論で言えば、ジュニアユースの子たちはみんな真剣にサッカーと向き合って、『プロサッカー選手になりたい』と思っています。でも、この段階ではあくまで夢。どんなプロセスでそこに辿り着くべきか、具体的な方法論は持ち合わせていません。翻って、建英にとってのプロサッカー選手は夢ではなく目標でした。そうなるための段階的な目標も定めていた印象があります」(京増)

 FC東京U―15むさしに加入してから約7か月後の16年1月、14歳の久保は飛び級でFC東京U-18に昇格する。「力的には飛び級も当然」というのが京増の印象だった。
 

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