川島永嗣が振り返る2003年ワールドユース。ついに打ち破った韓国の壁と、厚すぎた南米の壁【U-20激闘譜】

2020年07月05日 元川悦子

アジアユース1次予選突破後に田嶋監督が技術委員長に就任…監督交代に

2003年アジアユースの決勝トーナメント1回戦、日本は延長戦の末に韓国を下す。主将の今野が喜びを露にする。(C) AFLO/REUTERS

 90年代以降、日本のユース世代は幾度となくアジアの壁を突破し、世界への挑戦権を手にしてきたが、そこにはこの年代ならではの課題や示唆に富むドラマが隠されている。長きにわたり、日本のU-20年代の取材を続けてきた識者が、ポイントとなった世代をピックアップし、キーマンにオンライン取材で直撃。当時のチームについて検証していく。2003年のUAEワールドユースのチームを取り上げる今回は、ストラスブールに所属する日本代表GKの川島永嗣に話を訊いた。(取材・文●元川悦子/フリーライター)

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 99年ワールドユース(現U-20ワールドカップ)・ナイジェリア大会の準優勝という快挙で、「ユース年代のレベルの高さ」を世界に認めさせた日本。だが、続く2001年アルゼンチン大会ではグループリーグ敗退を喫し、再び大きな壁にぶつかった。次なる2003年UAE大会では出場権獲得はもちろんのこと、16強以上の結果を残さなければいけない……。この頃の日本サッカー界にはそんな機運が高まっていた。

 2001年に発足したチームの指揮を執ったのは、田嶋幸三監督(現日本サッカー協会会長)。彼は自身が率いた2001年U-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)トリニダード・トバゴ大会での主力だった菊地直哉(鳥栖コーチ)、成岡翔(藤枝アンバサダー)、茂木弘人、阿部祐大朗ら84年生まれ組を引き上げると同時に、83年組の川島永嗣(ストラスブール)、今野泰幸(磐田)、坂田大輔(現代理人)らを抜擢。今野をキャプテンに据え、合宿を繰り返しながら、強化を進めていった。

「当時は2002年日韓ワールドカップ直前。(フィリップ・)トルシエ監督がA代表を率いていたので、フランス人のフィジカルコーチが僕らの合宿に来てトレーニングをしてくれたこともあったし、世界大会前にはブルキナファソ遠征も行きました。田嶋さんは『世界で戦える選手になれ』と口癖のように言っていて、前線からのハードワークや1対1の激しさを強く求めていた。日本が世界で勝とうと思うなら、その部分を強化しなければいけないという信念を持っていたんだと思います」と、発足時から招集されていた川島は述懐する。

 確かに2000年初頭は「世界基準」が声高に叫ばれていた時代。90年代後半に指導者ライセンス制度やトレセン改革を断行した田嶋監督はその重要性を誰よりも分かっていたから、若い世代に球際の厳しさや寄せの激しさ、戦う姿勢を貪欲に要求したのだろう。

 彼らは2002年5月のアジアユース選手権予選(1次予選=東京)を順当に突破。カタール遠征やSBSカップを経て、10月の最終予選(ドーハ)に向かっていた。そんな矢先の8月末、指揮官の協会強化委員長(現技術委員長)就任が決定。現場を離れることになる。それは予期せぬ事態に他ならなかった。

 後を託されたのは、FC東京をJFLからJリーグへと押し上げた大熊清監督(現清水GM)。育成年代の指導経験は皆無に近かったが、誰よりも負けることを嫌う熱血漢だった。彼は前任者の路線を引き継ぎつつ、闘争心を前面に押し出す指導を始めた。

「大熊さんになってからも4-4-2のシステムやハードワークを重視する方向性は変わりませんでした。むしろ前線の選手はより献身的に前からボールを追わなければいけなくなった。世界で勝つにはそれが必要だと考えていたんでしょう」と川島は証言する。

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