「あれで僕は本当にメディアが嫌になった」新ジダンと呼ばれた男の苦悩と挫折のストーリー【消えた逸材】

2020年07月06日 結城麻里

U-17優勝後に「新ジダン登場!」と騒がれる

07-08シーズンから4年間はラツィオに所属したメグニ。だが、ここでも才能を開花することはできなかった。 (C)Getty Images

 新ジダン――。フランスにはこの看板を背負わされ、期待に応えられないまま消えていった選手が大勢いる。ムラド・メグニもその一人だ。

 アルジェリア人の父とポルトガル人の母の下、パリ郊外のシャン・シュル・マルヌでボールを蹴りながら成長したメグニが、自身の才能を意識したのは13歳のとき。エリートだけが入れる国立の若手養成機関『INFクレールフォンテーヌ』に合格したのだ。

 翌年の98年にジネディーヌ・ジダン擁するフランス代表がワールドカップを制覇。エレガントなテクニックを誇る司令塔だったメグニは、ルーツも英雄ジダンと同じアルジェリアだったこともあり、周囲から「ジズー」と呼ばれるようになる。INF同窓生のジャック・ファティはつい最近も、「メグニの才能は特別だった」と懐かしんでいた。
 当然、メディアが放っておくわけはない。フランス代表の背番号10として臨んだ01年U -17ワールドカップで優勝を果たすと注目度はさらにアップし、「新ジダン登場!」と騒がれた。もっとも本人は、「(比較されることに)疲れた」と当時、本音を語っている。

 メグニがいまも許せないのは、テレビのドキュメンタリーだ。U-17ワールドカップ王者に輝いたメンバー18人に1年間も密着し、プライベートも全て撮影した。ところが蓋を開けてみると、登場したのはファティ、ミカエル・ファーブル、メグニの3人だけ。ボローニャと契約交渉中だったメグニは、ことさらその部分だけフィーチャーされた。

 当時、やはりINF出身のジェレミー・アリアディエールが国内クラブを無視してアーセナルと契約。センセーションを巻き起こしていただけに、同じ事例として注目したのだ。

「カネにしか興味がないやつとして描き出したんだ」と本人が振り返る。

 その頃のメグニはINFからカンヌ育成センターに渡るも、当のカンヌが財政破綻。そのうえ国内の他クラブと契約できない取り決めだったため、活躍の場を国外に求めるしかなかった。だが、そうした背景は報じられなかった。

「あれで僕は本当にメディアが嫌になった。ジダンとの比較に加えて、あのばかばかしいルポ。あんまりだった」

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