「小さい頃から憧れ」「少しでも認めてもらいたくて」玉田圭司が語るストイコビッチ

2020年06月04日 多田哲平(サッカーダイジェスト)

「ヨーロッパの選手なのに、なんかラテン系」

名古屋では選手と監督の間柄に。「毎日気が抜けなかった」と振り返る。(C)SOCCER DIGEST

 千葉県の強豪・習志野高校を卒業後、柏レイソルでプロキャリアをスタートさせると、その後名古屋グランパス、セレッソ大阪で活躍し、現在はV・ファーレン長崎に在籍する。J1での通算ゴール数は歴代15位タイの99得点。2004年から10年まで日本代表にも選ばれ、06年のドイツ・ワールドカップ、10年の南アフリカ・ワールドカップに出場した。

 そんな熟練のストライカーにJリーグ歴代ベストイレブンを訊いた際に、最も印象に残っている「ベストプレーヤー」に挙げたのが、ストイコビッチだった。

「選手として対戦する機会はなかったですけど、小さい頃から憧れていました。特に90年のイタリア・ワールドカップでのパフォーマンスは印象に残っていますね。

 世界的な地位を確立しているなかで、94年にグランパスに入団してきた時のこともよく覚えています。当時ストイコビッチのプレーを身近で見られるようになって、色々と映像を漁って観ていました」

 ストイコビッチが名古屋に加入した頃、中学生だった玉田は、「ピクシー」と呼ばれる天才MFの華麗なプレーに胸を躍らせたひとりだった。95年には名将ベンゲルの下で本領を発揮したストイコビッチは、天皇杯優勝に導く。

 玉田は当時の名古屋を「なにより観ていて楽しかった。若い時の憧れで、思い出深いチーム」と振り返っている。
 
 そんなチームの中心として、自由自在に攻撃を組み立て、ボールを持つ度にワクワクさせてくれる背番号10にくぎ付けになるのは当然だった。

「ヨーロッパの選手なのに、なんかラテン系のサッカーをしているというか。本当に楽しそうにプレーしているなと思わせてくれる数少ない選手でした」

 そうストイコビッチのプレーを振り返る玉田だが、もちろん「ベストプレーヤー」に選んだ理由は、選手としてだけでない。

 知ってのとおり、玉田が名古屋で3年目を迎えた08年、監督としてやってきたのがストイコビッチだった。しかも10年にはクラブ史上初のリーグ制覇を果たしたのだから、憧れの人を「選手としても監督としても思い入れが強い」と語るのは当然だ。

 当時を玉田は「1日も気が抜けなかったですね。毎日、少しでも自分を認めてもらいたいという気持ちで練習をしていました。すごく引き締まった雰囲気でやれていましたね」と振り返る。

「ただ、怒ったらめちゃくちゃ怖かったです。気性が荒いというのは、みんなが知っていると思いますけど(笑)。ロッカールームでは怒鳴ったり、何か蹴っ飛ばしたり。まあ、そんなことも含めて、すごく良い思い出です」

 そう笑って話す玉田にとって、ストイコビッチは選手としても監督としても、特別な存在のようだ。

取材・文●多田哲平(サッカーダイジェスト編集部)

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