「別のやり方があった」宮本恒靖が負った深い傷…ドイツ惨敗の代償【日本代表キャプテンの系譜】

2020年05月26日 元川悦子

『日本代表キャプテンの系譜』vol.3 宮本恒靖|10代から年代別代表で主将の重責を担ってきた男

ドイツW杯で日本代表のキャプテンを務めた宮本。写真:サッカーダイジェスト

 欧州8年のプレー実績を誇る中田英寿を筆頭に、高度な海外経験を積み重ねた中村俊輔(横浜FC)や高原直泰(沖縄SV)らを擁した2006年ドイツ・ワールドカップの日本代表は「史上最高のタレント集団」と位置付けられた。「この陣容なら2002年日韓ワールドカップのベスト16を超えられる」という周囲の期待も非常に高かった。

 国民の熱い思いを誰よりも強く感じていたのが、当時のキャプテン・宮本恒靖(ガンバ大阪監督)だった。10代の頃から年代別代表で主将の重責を担ってきた男は、2003年東アジア選手権(東京)で「キャプテンをやれ」とジーコ監督(鹿島TD)から指名を受け、数々の困難に率先して立ち向かってきた。前任者のフィリップ・トルシエとは対極の自主性重視の指揮官に「もっと戦術練習を取り入れてほしい」と要望を出し、2004年アジアカップ準々決勝・ヨルダン戦(重慶)で主審に異議を申し立ててPK戦の場所を変えさせて優勝へと導き、最終予選でも痛恨の敗北を喫したイラン戦後に4バックから3バックへの変更を指揮官に提言。要所要所で重要な役割を果たしてきた。だからこそ、「宮本がいれば、ドイツでも大丈夫」といった空気がチーム内外に流れていたのは確かだし、ジーコも信頼を寄せていたはずだった。

 だが、ワールドカップというのは注目度も期待値も他の大会とは比べ物にならないほど凄まじい。宮本が改めてそのことに気づいたのが、5月末の福島合宿だった。Jヴィレッジには連日、1万人をはるかに超える観客が集まり、選手がボール回しやミニゲームをするだけで異様な歓声に包まれる。日韓ワールドカップの時は事前合宿から本大会に至るまでずっと非公開練習だったから、こういうムードになることは一切なかった。

「どこか、雰囲気がおかしい……」

 宮本は焦燥感を覚え、ジーコに「非公開を取り入れてほしい」と申し出た。しかし指揮官の答えはNO。「やり方を変えるつもりはない」という言葉を耳にし、「それなら自分たちがしっかりやるしかない」と気を取り直してベースキャンプ地・ボンへ赴いた。

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