ドーハ後の生き地獄。そして解放【福田正博が語る“オフトジャパンの真実”EP7】

2020年05月14日 白鳥和洋(サッカーダイジェスト)

「目標、目的を見失った」

ドーハ後、浦和で苦しんでいた福田が、95年シーズンになると輝きを放ち始め……。写真:Jリーグフォト

 まだ日本がワールドカップ本大会に出られなかった時代、どこか人間臭く、個性的で情熱的な代表チームが存在していたことを是非、知っていただきたい。「オフトジャパンの真実」としてお届けするのは、その代表チームの中心選手だった福田正博の体験談を基に、「ワールドカップに絶対出る」という使命感を背負って過酷な戦いに挑んだ日本代表の物語であると同時に、福田自身の激闘記でもある。今回は最終章の<エピソード7>だ。

【前回までのあらすじ】
92年に発足したオフトジャパンでトップ下に定着した福田は、ダイナスティカップとアジアカップ制覇に貢献。しかし、ワールドカップのアジア1予選を突破したあとはJリーグの過密日程も響き、調子を落とす。迎えた最終予選でも結果を残せず、チームはまさかの展開でアメリカ行きを逃がす。帰国後、福田は茫然自失の状態だった。

<エピソード7>
 本当の地獄は"ドーハの悲劇"のあとから始まった。福田は当時の心情をこう振り返っている。

「(ワールドカップ・アジア最終予選の北朝鮮戦以降)スタメンから外れた悔しさ、自分に対する歯がゆさ、情けなさ、いろんな感情があった。負けたとか、ワールドカップに出られなかったとか、そういう感情とは違う。やり切ってないから。なんかすっきりしない感じ。その感情をずっと引きずっていた」

 福田は一種のパニック状態に陥っていた。

「ドーハのあと、チーム(浦和レッドダイヤモンズ)に戻っても拠り所がないというか、どうしていいか分からない。パニックになっていた感じだね」
 
 人に会うのも嫌で、プレーしようにも力が湧いてこない。「ワールドカップ出場」に向けてやってきた使命感がすっぽりと抜け落ちた状態だった。

「目標、目的を見失った。俺は切り替えが得意なほうではない。むしろ、引きずるほうだった。過去のことを忘れて、『さあ、次』となれる選手のほうが結果を残せると頭では理解しているけど、俺はポジティブになれなかった。そういう性格だからね。ドーハのことを切り離せなかったんだ」

 自信を喪失しているが、浦和ではチームの中心として振る舞わなくてはいけない。その狭間で気持ちを上手くコントロールできず、いつも苛立っていたという。
 

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