「僕が受けなければサンフレッチェの火が消える」――経営危機のクラブ救った決断の舞台裏【広島|久保会長インタビュー前編】

2020年05月12日 志水麗鑑(サッカーダイジェスト)

「僕はサッカーのことは分からん」と最初は断ったが…

株式会社エディオンの代表取締役会長兼社長執行役員を務める久保允誉氏。サンフレッチェ広島の会長も兼務している。(C)SOCCER DIGEST

「もともとね、サッカーはそんなに興味がなかったんですよ」

 優しい笑顔で話を始めてくれたのは、サンフレッチェ広島の久保允誉会長だ。1998年に経営危機に陥っていた同クラブの社長に就任し、見事に立て直した敏腕である。07年の社長退任に伴って会長職に就き、現在まで至るが、その道程にはクラブを構築した様々な重要な出来事があった。

 ロングインタビューで余すことなく本音を語ってくれた久保会長の言葉を基に、サンフレッチェ広島の過去・現在・未来を紐解いていく。

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 広島県出身の久保允誉は、元来は"野球人"である。「野球が好きでね。草野球でチームを作って、他流試合をやったり、色んな芸能人のチームとも試合したり、自分もピッチャーをやって、楽しく野球をやっていた」。そう語る素顔はまさに文字通り野球好きそのもので、「サッカーは小学校と中学校の体育の時間しかボールを蹴ったことない」と笑う。

「思いもしなかった」サッカーに関わることになったきっかけは、株式会社デオデオ(現エディオン)の代表取締役社長として迎えた1997年のことである。

「当時の話ですが、(サンフレッチェの筆頭株主の)マツダさんの業績が一時的に非常に厳しくなったんです。そして、サンフレッチェのスポンサーをやっている事態じゃないと、徐々にサンフレッチェから手を引いていきたいという意向がありました。じゃあ、どこが(メインスポンサーを)受けるの? となって、当時の広島商工会議所の橋口(収)会頭から、『マツダさんがこういう状況なので、マツダさんが後押しをするから、久保さん、受けてくれないか』という話があったんですよ。でも僕は、『いやいや、僕はサッカーのことは分からんし、興行についても、全然、経験がないし、小売業なら分かると(笑)。そういう話をして、よく考えさせてください』と最初は言いました。

 それでも一週間後くらいに橋口会頭からまた話があって、藤田雄山さん(当時の広島県知事)、平岡さん(敬/当時の広島市長)、マツダのミラー社長(当時)もあわせた会合が開かれたんです。クラブは債務超過で、『久保さん、こんな数字じゃ受けれんよな』という第一声が藤田知事からあって、みんなでどうサポートするのかを話し合いました。そして僕は、お受けするのであれば、『条件があります』と申し上げました。県・市・経済界の協力、そしてマツダさんにはサンフレッチェへの支援の継続、また、練習着にはスポンサーを入れるからゼッケン(ユニホームの胸スポンサー)を外してほしいとお願いし、それだったらお受けすると申し上げたんです。そうしたら、ミラー社長が『分かりました』と仰ってくれて、他の皆さんも賛同してくれて、サンフレッチェの経営を引き受けることになったんです」
 当時の心境を言えば、「ウチが受けなかったら、もう受けるところがなかった。このまま、僕が受けなければ、広島からサンフレッチェの火が消える。これは受けないといけん、ということで『エイヤー!』というような気持ちで受けたんですよ、本当に」と熱い気持ちで一大決心をした時を冗談交じりに振り返る。

「エイヤー!」と半ばやけになったかのような表現で当時を回顧しつつも、翌98年に正式にサンフレッチェの社長に就任した久保は、的確に経営改革を施していった。

(文中敬称略)

<中編へ続く>

取材・文●志水麗鑑(サッカーダイジェスト編集部)
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