【黄金の記憶】本山雅志と東福岡~雪の決勝でなぜ彼らは、伝説の“3冠”を達成できたのか

2020年05月07日 川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

「楽しかった。だってあの3人の後ろですよ?」

一つひとつ記憶を紐解きながら、濃密な高校時代を振り返ってくれた本山(写真はインタビュー当時)。(C)Takeshi TSUTSUI

 当サイトで好評を博した連載『黄金は色褪せない』。1999年のナイジェリア・ワールドユースで銀メダルに輝いた"黄金世代"のなかから、小野伸二、遠藤保仁、小笠原満男、稲本潤一、本山雅志の5人に登場してもらい、そのフットボール哲学の全容に迫ったインタビューシリーズだ。

 そこで紹介した興味深いエピソードから、厳選した秘話をお届けしよう。

 今回は圧倒的な技巧で観る者を魅了し続けたエンターテナー、本山の出番だ。その華々しいキャリアを語るうえで欠かせないのが、濃密な東福岡高校での3年間である。数多の苦難を乗り越え、天才アタッカーはいかにして"赤い彗星"を3冠の金字塔へと導いたのか。

 雪の決勝で完結する、伝説のサクセスストーリーを紐解く。

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 1995年春、東福岡高校に入学した本山雅志は、すぐさまトップチームに引き上げられ、得意の2列目でプレーしていた。
 
 だが、インターハイ予選を前にしたある日、志波芳則監督は本山を呼び出してこう告げた。「お前、ボランチをやってみんか。やってみい」。本山はポカーンと口を開けて聞いていたという。
 
 志波監督に本山のコンバートを提案したのは、3年生の生津将司だった。同じ北九州市の出身で、入部してからというもの、弟のように本山を可愛がっていた天才肌のプレーメーカーだ。4-1-4-1システムの1ボランチは本来、生津のポジションだったが、「俺はひとつ前(シャドー)でやりたいです。本山ならできるはずだし、教えます」と直訴してきた。生津とサッカーの話をしたのは、3年間であの一度きりだったよなぁと、先生が懐かしそうに振り返る。
 
 なかなかのアイデアだ、さすがは生津だと思った。本山はシャドーでプレーしていたが、まだ線が細く身体ができていないため、圧倒的にパワーが足りなかった。ガツンとシュートが撃てず、いまのままでは上級生のディフェンダーたちに潰されるだろう。止める、蹴るの基本技術が高く、なによりピッチを俯瞰して見れる天性の"鳥の眼"がある。本人の今後を考えても有意義な経験になるはずだと信じ、名将はボランチへの配置を決めたのだ。

 
 最初は驚いた本山だが、「試合に出してもらえるならどこでもやろうと思った」と腹をくくる。
 
「前にいたのが小島(宏美)さん、山下(芳輝)さん、それに生津さんですからね。ボールを持ったらすぐに預ければ、全部やってくれました。それまであまりやってなかった守備のところを頑張って、とにかく走り回ってボールを奪い、止めて、蹴る。先輩たちの迷惑にならないようにサッカーしてましたよ。まだ怖いもの知らずというか、1年だから、勝たなきゃいけないっていうプレッシャーもなかった。だから楽しかったですねぇ。だってあの3人(小島、生津、山下)の後ろですよ?」

 ボランチでプレーし始めてまもなく、生津はやたらと居残り練習に付き合ってくれたという。本山にキック力を付けさせようと、ロングキックを何度も蹴らせた。「そういうタイプのひとじゃないはずなんですけど、どこかで罪の意識があったのかもしれない(笑)。だいぶ経ってからこういうことだったんだって聞かされました」と笑う。
 
 一方で志波監督は、本山の攻撃的なセンスを磨く機会もちゃんと与えてくれた。東福岡は夏のインターハイ本大会にエントリーしていたが、同じ時期、1年生チームにはブラジル遠征が組まれていたという。なんとトップチームのレギュラーである本山をインターハイではなく、そのブラジル遠征に参加させたのだ。
 
 攻撃的なポジションで好きなだけプレーさせてもらったという。「すごいいい経験になった。海外でプレーしてひとつの自信に繋がりましたから」と22年前の出来事を振り返り、感謝を口にする。

次ページ最初の選手権で命じられた“俊輔へのマンマーク”

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