ガンバ悲願のJ1初制覇──。夕暮れの等々力で、橋本英郎の言葉に涙した【取材記2005】

2020年05月02日 川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

途轍もなく重かった「最初の扉」

勝ち越し点を決め、珍しく雄叫びをあげた宮本。胸のエンブレムに手を当て、ゴール裏のサポーターを鼓舞した。(C)SOCCER DIGEST

 記者のなかにも、もっている者ともっていない者がいる。

 筆者は明らかに後者だ。およそ四半世紀の取材キャリアで、担当チームが獲得したタイトルはたったのひとつだけ。セレッソ大阪にはじまり、ガンバ大阪、浦和レッズなどの番記者を歴任したが、大半は私が担当を外れてから真の強豪への道を辿っていった。浦和に至っては担当になったシーズン、J2に降格している。

 かつて鹿島アントラーズとジュビロ磐田の黄金期を担当していた後輩に、「いいなぁ、毎年のように優勝原稿が書けて」とボヤくと、「代わりましょうか? 慣れというのは怖いものですよ」と軽口を叩かれる始末だ。高校サッカーでずっと追っていた東福岡が1997年度に三冠を達成し、「やっと報われた」と自分を慰めるほかなかった。並行して小野伸二や稲本潤一、本山雅志ら黄金世代の取材を続けていたが、彼らを擁するU-19日本代表が優勝候補筆頭だった1998年アジアユースでさえ、決勝で韓国に敗れている。

 そんななか、ようやくキャリア10年目で戴冠の瞬間に立ち会えた。忘れもしない2005年12月3日、快晴の等々力陸上競技場だ。世紀の最終節とも語り継がれるJ1リーグ第34節で、ガンバが悲願の初優勝を飾った試合である。

 万博の主を担当して、すでに9年が経っていた。サッカー不毛の大阪で生まれ育った私が週刊サッカーダイジェスト編集部に配属となり、なにより一助となりたかったのは、故郷でのサッカー人気向上だ。エネルギーが有り余っていたため、最初はセレッソとガンバのダブル担当と無理をしていたが、双方の広報部長に「君はどっちやねん!」「贔屓はアカンぞ」などとしょっちゅう小言を言われ、1999年からはガンバ一本に絞った。

 京都・田辺の枯芝グラウンドでパトリック・エムボマのストレッチを手伝い、高校生の稲本を京阪電車の樟葉駅までクルマで送っていったこともある。まだ「Jのお荷物」と揶揄されていた時代だ。どこかプロ意識の欠けていたスタッフが、コツコツと努力を積み重ねる姿を目の当たりにした。まさに、育成年代の構築から長期スパンでのチーム強化に乗り出した改革期。東京-大阪間を月に何度も往復し、誌面でガンバの特集ページを獲り、自分なりのサポートを続けた。

 
 いまは亡きヨジップ・クゼ氏、フレデリック・アントネッティ氏、早野宏史氏と指揮官が代わるなか、負ければケチョンケチョンにレポート記事で叩き、こっぴどい選手採点を付けるなどして何度か険悪なムードにもなったが、すべては愛情の裏返し。どんどん強くなって、大阪のサッカーに光を当ててほしいと願っていた。

 やがて2002年、西野朗政権がスタートする。カリスマ性があってアグレッシブなスタイルを貫く監督と、アカデミー出身で脂が乗りはじめていた宮本恒靖、橋本英郎、大黒将志、二川孝広らが見事にシンクロして、センターラインの根幹をなした。A代表にも名を連ねていた遠藤保仁、山口智、吉原宏太らが躍動し、松波正信、實好礼忠、松代直樹、森岡茂ら古株がしっかりと後方支援。若き西野ガンバは自信を増幅させながら、着実に優勝争いに絡むチームへと進化を遂げていた。

 そしてこの良き流れに、アラウージョ、フェルナンジーニョ、シジクレイという歴代最強助っ人トリオ(個人的見解です)が揃い踏みする。2005年シーズンの幕開け、初戴冠への準備は整った。

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