【番記者コラム】 “王国・清水”のプライドが砕かれたJ2降格。二度と同じ過ちを起こさないために――

2020年05月01日 前島芳雄

Jリーグ28年の歴史の中で、ふたつの大きな事件が

清水は2015年、セカンドステージ14節の仙台戦で敗れ、その後の他会場の結果により初のJ2降格が決まった。写真:田中研治

 1993年のJリーグ初年度から加盟しているクラブはオリジナル10と呼ばれ、清水エスパルスはその中で唯一、母体が実業団ではない。いわゆる市民クラブだ。そんな清水のJ参戦28年という長い歴史の中で、ふたつの大きな事件があった。

 ひとつは97年末に20億円を超える負債が表面化した経営危機だ。ただ、地元住民、ファン、サポーターなどの署名や地元企業の支援でなんとか乗り切り、経営体制も一新。その後、96年から指揮を執っていたオズワルド・アルディレス監督や98年12月に就任したスティーブ・ペリマン監督の下で堅実なチーム作りを行ない、2001年の天皇杯優勝など、黄金期につなげた。

 ふたつ目はクラブ初のJ2降格。今回はこの出来事を軸にクラブの変化を振り返ってみたい。
 
 年間順位17位で15年にJ2降格が決まった清水だが、原因となった病巣はかなり前からあった。

 90年代後半から2000年代初頭にかけての黄金期が過ぎ、その後、低迷期を挟む。ただ、05年にクラブのレジェンドである長谷川健太氏を監督に招聘してからは短期間で復活し、J1で常に上位に立った。

 しかし10年シーズン限りで、長谷川監督が退任すると、功労者の伊東輝悦、市川大祐、西部洋平らが退団。岡崎慎司、藤本淳吾、本田拓也といった日本代表クラスやキャプテンの兵働昭弘も後に続き、主力の半数以上がチームを去った。
 

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