4歳ではっきりと自分の夢を語る。
20歳にして今や世界的なスピードスターに伸し上がったエムバペ。(C)Getty Images
キリアン・エムバペはパリ郊外の出身だ。だが、いわゆる「郊外っ子」ではない。夜の街を徘徊するタイプでもなければ、周囲に見捨てられた子でもない。中産階級の家庭で不自由なく育った、郊外出身の子弟だった。(訳者・注/「郊外っ子」には、貧困、差別、失業、麻薬、暴力、殺人など厳しい環境で育った子という意味があると同時に、そうした困難に立ち向かって生き抜いてきたエネルギッシュな若者といったイメージもある)。
カメルーンにルーツを持つ父ウィルフリッドは、イル=ド=フランス(首都パリの地域圏)では良く知られた少年サッカーの指導者で、アルジェリアがルーツの母ファイザは、1部リーグで活躍したハンドボール選手だった。
エムバペ一家はパリ北東郊外のボンディに居を構えていたが(ボンディは、フランス全土に拡大した2005年のパリ郊外暴動事件でも有名になった町で、スイス人ジャーナリストが「ボンディ・ブログ」という密着報道を発信した、パリ北東郊外の中心地でもある)、低家賃の荒んだ公営団地ではなく、5階建てのマンションで暮らしていた。すぐ隣にはスタジアムがあり、父はそこで監督をしていた。
カメルーンにルーツを持つ父ウィルフリッドは、イル=ド=フランス(首都パリの地域圏)では良く知られた少年サッカーの指導者で、アルジェリアがルーツの母ファイザは、1部リーグで活躍したハンドボール選手だった。
エムバペ一家はパリ北東郊外のボンディに居を構えていたが(ボンディは、フランス全土に拡大した2005年のパリ郊外暴動事件でも有名になった町で、スイス人ジャーナリストが「ボンディ・ブログ」という密着報道を発信した、パリ北東郊外の中心地でもある)、低家賃の荒んだ公営団地ではなく、5階建てのマンションで暮らしていた。すぐ隣にはスタジアムがあり、父はそこで監督をしていた。
フットボールが身近にあったキリアン少年が、フットボーラーを目指したのはごく自然な流れだった。だから、「その瞬間」を特定するのは難しい。少年が、いつ、どうして、フットボーラーになろうと決意したのか、そのきっかけをはっきりさせるのは不可能だ。少なくとも分かっているのは、4歳の時に父にこう告げたという事実だ。
「僕、クレールフォンテーヌに行くよ。その後はレアル・マドリーでプレーするね」
クレールフォンテーヌとは、言わずと知れたフランスが世界に誇るエリート養成機関だ。キリアン少年が憧れていたティエリ・アンリもクレールフォンテーヌの卒業生だ。ちなみに、そのアンリよりも少年が熱を上げていたアイドルはクリスチアーノ・ロナウドで、子供部屋の壁を埋め尽くしていたのはそのポスターだった。
ただ、「フットボールの天才」は、しかし学校生活にはなかなか馴染めなかったようだ。彼の頭脳とエスプリは猛烈なスピードで同級たちの先を進み、退屈な授業に集中できず、先生たちを苛立たせたのである。
母ファイザは一計を案じた。自作のチェックシートを息子に持たせ、授業をちゃんと受けたか、教師に確認のサインをしてもらうようにしたのだ。