【あの日、その時、この場所で】川淵三郎/中編 独裁者合戦のゴングが鳴ったパーティー会場

2019年11月01日 増島みどり(スポーツライター)

独裁者合戦の発端は…

思い出の地で“独裁者合戦”の真相を語る川淵三郎氏。写真:茂木あきら(サッカーダイジェスト写真部)

 都心に豊かな緑が広がる日比谷公園を眼下に、川淵三郎(82歳)は「こういう場所だったのかは覚えていないけれど、そもそもあの時、僕にはスピーチをする予定なんてなかった。準備もしていないのに突然言われ、大阪出身だから、関西人のちょっとしたサービス精神で話をしたんだろうね」と、周囲を見渡しながらゆっくりとスエードのソファに腰を沈めた。
 
 1995年1月、日本のスポーツ史に残る「論戦」のゴングが鳴った場所は、何度か改装はされたものの、サロンとしての重厚さを今も引き継ぐ。
 
 いわば「独裁者合戦」の火ぶたが切られたのは、意外にもホテルや講演先ではない。また、準備されていたスピーチでもなかった。場所は、言論界の総本山「日本プレスセンタービル」(東京千代田区)の、あるパーティー会場。しかも会場に到着してから突如指名をされ、即興で行なったエスプリの効いたあいさつが発端だった。

 当時、すでに半世紀の歴史を築いていたプロ野球「読売ジャイアンツ」最高経営者会議の一員であり、1400万部と世界一の発行部数を誇示する読売新聞社社長・渡邉恒雄(93歳)と、まだ歩き出したばかりのプロサッカー「Jリーグ」のチェアマン・川淵は、91年からパ・リーグコミッショナーに就いた原野和男(91歳)の「緩急自在」出版記念パーティーに出席していた。
 
 少しでもJリーグへの理解を広めようと、この頃は地方出張から帰京して、様々な会合を掛け持ちしてでも駆けつけた。原野のパーティーにもそうやって慌ただしく到着すると、渡邉も出席していると知らされた。

 同席に気が重くなった理由は、1か月前の94年12月、Jリーグで93、94年と連続優勝を果たした当時の「ヴェルディ川崎」(現・東京ヴェルディ)の優勝祝賀パーティーに遡る。

 実兄の葬儀を終え、チェアマンとして大阪から、都内で行なわれるこの祝賀会パーティーに向かおうとしていると、ヴェルディの幹部から急な連絡が入った。出席する準備をしていたというのに「何とか欠席してもらえないか」と言われたのだ。

 渡邉はどうやらJリーグ批判を祝賀スピーチに盛り込むようだ、と耳にした幹部が、対立構造を派手に取材されるのを嫌ったなんとも消極的な「忖度」である。「なんとか出席してもらえないか」ならばまだしも、「なんとか欠席してほしい」という失敬な要望を川淵があえて飲んだのは、69年に日本で初のフットボールクラブを創設(読売サッカークラブ)したヴェルディへの敬意にほかならない。

 渡邉は2季連続の優勝に気勢を上げ、予定通り「独裁者が、抽象的な理念など振りかざしているだけではスポーツに真の発展はない」と、名前こそ出さなかったが川淵を「独裁者」と断じ話題となった。93年8月、三浦知良(51歳/現・横浜FC)の媒酌人を務めた渡邉と披露宴であいさつを交わした際は、実ににこやかな様子だったと記憶していたという。
 

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