「ホセは家族想いの天才少年だった」急逝したレジェスの恩師が悲しみの回顧【現地発】

2019年06月06日 エル・パイス紙

母親特製のボカディージョで合宿を乗り切る

16歳でトップデビューを飾ったレジェス。その才能は幼少期からずば抜けていたという。(C)Getty Images

 ホセ・アントニオ・レジェスに初めて会った時、彼はまだほんの子供だった。真っ黒に日焼けした顔で、長髪をなびかせていた。いかにもカジェ(スペイン語でストリート)でフットボールをして育った少年という印象だった。

 セビージャのカンテラに入団したのは9歳の時。当時のセビージャはその年齢に相当するベンハミン(9~10歳)のチームを持っていなかった。そこでもうひとつ上のカテゴリーであるアレビン(11~12歳)に入団させると、すぐさま別格のプレーを見せた。

 左利きで、ボールを持つと一直線にゴールへ向かう積極果敢なプレーは圧巻だった。ホセは同世代の選手の中ですでに突出した存在だった。毎試合のように活躍し、低調なプレーをした試合は記憶にない。まさに天からフットボールの才能を授かった少年だった。

 入団当初からわれわれ関係者は、彼がトップチームに昇格して活躍することを信じて疑わなかった。当時のカンテラの指導者のひとり、ペペ・アルファロが驚きながらこう話していたのを思い出す。「ホセはすでにトップチームの選手に匹敵するスピードを持っている」

 子供の頃からホセは、将来セビージャに多くの栄光をもたらすことを運命づけられていたとすらいえる。マルコス・アロンソ監督の下で16歳でトップチームデビューを果たし(1999-2000シーズン)、マノーロ・ヒメネス(当時のBチームの監督)とホアキン・カパロス(同トップチームの監督)もまた10代だった彼の抜擢に躊躇することはなかった。

 ホセは期待に応える活躍を見せ、その鮮烈なプレーが評価され04年冬にアーセナルに移籍した。彼が残した移籍金(2000万ユーロ)によってセビージャはその後に急成長を遂げ、数多くのタイトルを獲得した。ホセのこの移籍はセビージャの歴史においてまさにターニングポイントとなった。
 
 そのホセが我々の元を去った(6月1日の交通事故で急逝)。モンチ(SD)から訃報を知らされた時、私はしばらく放心状態となった。もう何がなんだか分からなくなった。

 とくに懐かしい思い出として残っているのは母親のマリとの仲睦まじい関係だ。彼女はいつもホセに深い愛情を持って接していた。彼がプロフットボールの選手として成功を収めた陰には、常に母親の大きな支えがあった。

 ホセは極度の偏食だった。合宿などで我々が用意したパスタや鶏肉の料理には見向きもせずに、バターを塗ったパンばかり食べていた。そんな時、我々が講じた策は、大好きだった母親特製のボカディージョ(スペイン風サンドイッチ)を与えることだった。

 父親もフットボールを心から愛する人間で、毎日練習場までホセの送り迎えをしていた。ホセの家族はみんなで助け合いながら生活していた。
 

次ページいつも笑顔で天真爛漫だった

みんなにシェアする
Twitterで更新情報配信中

関連記事