「理不尽で激しい怒りは、いまならアウト」熱血漢トルシエは黄金世代をいかにして鍛え上げたのか

2019年04月24日 田村修一

そのはじまりは、チェンマイでの“出会い”

2002年日韓W杯に向け、全カテゴリーの日本代表を統括したトルシエ(右)。黄金世代との出会いはきわめて大きな分岐点となった。(C)Getty Images

 黄金世代にとって、フィリップ・トルシエとの出会いにはどんな意味があったのだろうか?
 
 トルシエは、大きな野心を持って日本にやって来た。彼が言う「野心に満ちたプロジェクト」とは、A代表と五輪代表をひとりで統括し、単にピッチの上だけにとどまらない、日本サッカーをより大きな枠の中で進化させることだった。それは4年後に日韓で開催されるワールドカップのグループリーグ突破のための準備であると同時に、さらにその先に続く日本サッカーの未来に向けての準備でもあった。
 
 若い世代をベースに、ユース代表から五輪代表、A代表へとチームを順次統合させて、ワールドカップを戦うチームを構築する。トルシエがこのアイデアを得たのは、1998年10月、チェンマイで行なわれたアジアユースを視察したときだった。日本代表監督に就任してからまだわずかひと月。それが黄金世代とトルシエの"出会い"だった。
 
「この世代の技術力はA代表のベテランたちをはるかに凌駕している。彼らを将来のチームの中核に据えれば、日本の可能性は大きく広がる」
 
 観客もまばらなチェンマイのスタジアムで、「椅子が硬くて1日に2試合見るのはきつい」とぼやきながら、彼は傍らのわたしに想いを熱く語った。日本サッカー協会との契約になかったユース代表監督を日本に戻ってから引き受けたのは、大きなチーム作りという「野心的なプロジェクト」のスタートであり、統合の最初のステップであった。

 
 トルシエがラボラトリー(実験室)と呼んだチーム構築のプロセスは、若い世代にとって、いや日本サッカーにとってもまったく未知の経験だった。
 
手の使い方、身体の使い方を教えるために、練習で選手に全力でぶつかる。そのボディーコンタクトの激しさもさることながら、彼らに大声で罵声を浴びせる。ときに脈絡なく怒りだす。理不尽で激しい怒りは、いまだったらアウトだろう。
 
 そんなトルシエに選手たちがさほど時間をかけずに慣れていったのは、10代後半だった彼らのほうがA代表のベテラン選手たちよりも順応性が高かったばかりではない。合理的かつ組織的なトルシエの戦術は彼らにとって理解しやすいものであり、戦術的オートマティズムもA代表に比べはるかに短時間で彼らは習得したのだった。

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