【消えた逸材】「アザラシ・ドリブル」で話題となりインテル移籍。しかし最後は藤枝MYFCなどを転々と…

2019年04月18日 沢田啓明

誰もが目を見張ったフォッキーニャ。

誰もが感嘆した「フォッキーニャ」はユース年代では強力な武器に。しかし、プロのトップレベルでは通用しなかった。※写真は本人のインスタグラムより

 その出現はブラジル・サッカー界に大きな衝撃をもたらした。強豪クルゼイロの下部組織で育ったケルロンは、身長168センチと小柄ながらスピードとテクニックを兼備したアタッカーで、右足から放つシュートは正確かつ強烈だった。

 そして、誰もが仰天するオリジナルの妙技を持っていた。ヘディングでボールを操りながら突き進む"空中ドリブル"である。

 ボールを右足で巧みに跳ね上げ、頭で突きながら局面打開を目指した。周囲の状況を的確に察知し、臨機応変にコースを変えながら進むため、ほとんどのマーカーは右往左往するか唖然と立ちすくむ。そうしてゴール前まで運んだボールを足下に落とし、最後は右足で一撃を見舞った。

 遊び心に溢れたブラジル人たちはかつて、エラスチコやヒールリフトなど数々のトリックを発明してきたが、ケルロンの空中ドリブルはその系譜に連なるまさに新技。「フォッキーニャ」(アザラシ・ドリブル)と呼ばれ、クルゼイロの下部組織時代から国内で話題沸騰となった。

 まだトップチーム・デビュー前だった2005年4月には、マルセロ(現R・マドリー)らとともにU-17南米選手権に出場。2試合連続ハットトリックの離れ業を演じるなど7試合で8ゴールを挙げる大活躍を見せ、優勝、得点王、最優秀選手の3冠に輝いた。
 
 ほどなくしてクルゼイロでもトップチームに昇格。当時の本人は「いずれヨーロッパのビッグクラブで活躍し、ブラジル代表の一員としてワールドカップで優勝したい」と意気揚々で、国内のメディアやファンも大きな期待を寄せていた。

 2008年夏にはセリエAの名門インテルと契約。しかし、前途洋々に思えたまさにその頃から、ケルロンのキャリアは下降線を辿っていく。その最大の理由が、ファウルも辞さない敵のハードな当たりだった。

 ケルロンがフォッキーニャを始めると、ボールに目もくれないマーカーたちが身体をぶつけ、太腿、膝、足首などを蹴りつける。ケルロンの肉体は悲鳴を上げた。

 フォッキーニャを封印する選択肢もあったはずだが、それでは並の選手レベル止まり。結果的に得意技に固執して、怪我を重ねた。

 インテルと契約後に外国人枠の関係で即レンタルに出されたキエーボでは、1シーズンでわずか63分間の出場。翌09-10シーズンは同じくローンでアヤックスに渡ったが、やはり結果を残せなかった。「欧州で成功する」という夢は儚くも破れ、11年には母国ブラジルに舞い戻った。
 

次ページ8回の手術で身体はボロボロに…。

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