【小宮良之の日本サッカー兵法書】 デル・ピエロの「真のカルチャトーレ」としてのキャリアに学ぶ

2018年11月16日 小宮良之

「あいつだけは本気だった」(実兄)

子どもの頃はマラドーナ、プラティニ、ファン・バステン、ジーコらのプレーを見本にしながら、独自のスタイルを確立させたというデル・ピエロ。そんな彼が、のちに教科書的な存在となった。 (C) REUTERS/AFLO

 クリスチアーノ・ロナウド、リオネル・メッシという稀代のスーパースターが登場する以前、サッカー界の主役のひとりだったのが、元イタリア代表アレッサンドロ・デル・ピエロだろう。
 
 そのデル・ピエロは今年9月、イベント企画で岐阜を訪れていた。少し顔つきはふっくらしていたが、笑顔の雰囲気は変わっていなかった。
 
 名選手だったデル・ピエロは、どのような少年期を送ったのか?
 
 かつて筆者はそれを探るため、彼が生まれた街、トレビゾを渡り歩き、ルポを執筆したことがある。
 
  カルチョ(サッカー)に対する熱量。
 
 ありきたりだが、それがデル・ピエロの才能だったのではなかったか。
 
「僕は、弟よりも9つ歳上なんですが、学校が終わってサッカーをやるとなると、あいつは必ず付いてきましたよ」
 
 兄のステーファノは、そう回顧していた。
 
「9歳も違うので、弟は一番、チビでした。でも、物怖じは少しもしませんでしたね。ボールに食らいつくんです。正直、僕らはどこかで"遊び"という感覚がありましたが、あいつだけは本気でした。勝ち負けに、誰よりも拘っていました。小さいけど、勝利への執念を感じさせましたよ」
 
 デル・ピエロは、好きなサッカーでは誰にも負けたくなかったのだろう。地元クラブチームに入団すると、練習場には誰よりも先に来た。そして、ひとりで黙々とFKの練習をしていたという。
 
 1日、2日で大した差は出ない。しかし、毎日積み重ねると、熱心さは自然と実力差に表われる。デル・ピエロは、神から与えられたような才能を、しっかりと磨いたのだ。
 
 その才能が燃え立つために、薪をくべる人もいた。
 
 デル・ピエロの父は寡黙な人だったが、とても心が温かい人だったという。ある日、息子が暗くなっても必死に目を凝らし、ボールを蹴っている姿を見かけた。そこで、息子が留守のあいだに、裏庭に電球を取り付け、簡易的な"ナイター設備"を作った。
 
 父が電力関係の仕事をしていたからできたことだったが、このサプライズにデル・ピエロ少年も大はしゃぎだったという。

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