森保新監督の指導哲学は「ドーハの悲劇」が原点!若き"ポイチ"は自己犠牲の塊だった

2018年07月27日 佐藤俊

現役時代は中盤の底で守備のバランスを保つボランチとして活躍

日本代表の新監督に就任した森保氏は、現役時代にドーハで戦った日本代表において、それこそ欠かせないキーマンだった。写真:徳原隆元

 森保一が日本代表監督に就任した。
 
 サンフレッチェ広島監督時代の功績は、4年で3度のリーグ優勝に導くなど、広く知られているが、現役時代に「ドーハの戦士」だったことは、意外と知られていない。三浦知良やラモス瑠偉、柱谷哲二、福田正博ら独特で個性的なメンバーが多く、彼らにスポットライトが当たっていたので、森保の名前は知られていたが、印象が薄かったのだ。
 
 だが、森保はカタールのドーハで戦った日本代表において、それこそ欠かせないキーマンだった。当時の日本代表は4-4-2が軸になり、中盤はダイヤモンド型だった。初戦のサウジアラビア戦(0-0)、続くイラン戦(1-2の敗戦)、森保は中盤の底にポジションを取り、左サイドハーフにはラモス、右サイドハーフは吉田光範、トップ下には福田正博という構成だった。吉田は攻守に鼻がきくマルチプレイヤーだったので、右サイドの守備についてはそれほど意識することはなかった。
 
 だが、左のラモスは攻撃的な選手でほとんど守備が機能しなかったので、バイタルエリアから左前にかけてラモスのエリアをカバーしなければならず、さらにラモスのサポートを求められた。ラモスの攻撃での貢献度を知れば多少は守備に目をつぶるのは致し方ないのだが、それでも負担は大きく、森保は半端ない運動量を求められた。
 
 それをイヤとも言わず、献身的にこなしていた。当時の森保は24歳の中堅層だったが、代表入りしてまだ1年半程度だったので、ラモスに何かをいうよりもその良さを発揮してもらうために、自らは黒子に徹していたのだ。
 
 最終予選が中盤に差し掛かった北朝鮮戦からオフトは4-3-3にシステムを変更した。対戦相手の力が落ちていたこともあり、優位に試合を展開して3-0で勝った。だが、中盤は3枚になり、森保は吉田とラモスとのバランスを考えてプレーし、中盤の広範囲を攻守にフォローしなければならず、その負担はさらに増えた。
 
 プロである以上、ラモスのように目に見える形で結果を残し、チームを勝たせたいと思うのは理解できる。だが、勝負は森保のようにそういう気持ちを押し殺し、チームに貢献する選手がいるかどうかで決するケースが多い。
 
 一時期、オフトはわがままなラモスを外すことも考えたが、森保については信頼を隠さず、終始スタメンで起用し続けた。チームのために自己犠牲を果たせる選手であることをオフトは見抜いており、森保をワンランク上の意識で戦える選手だと認めていたからである。

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