【黄金世代】第4回・稲本潤一「アーセナルでなにを迷い、なにを決断したのか」(♯4)

2017年09月05日 川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

半年くらいした頃かな。もう諦めかけてる自分がおった。

欧州挑戦、その始まりの地は北ロンドンだった。ヴェンゲル監督(左)に請われての入団。しかし、当時のガンナーズは文字通り異次元の領域で……。(C)REUTERS/AFLO

 2001年夏、稲本潤一は9年半を過ごしたガンバ大阪に別れを告げ、21歳で欧州行きのチャンスを掴んだ。
 
 レンタルでの移籍先はなんと、プレミアリーグの強豪アーセナル。アーセン・ヴェンゲル監督自身がコンフェデレーションズ・カップでのプレーを見初め、ラブコールを送ったのだ。言うなれば相思相愛で、誰もが明るい展望を描いた。
 
 わたしは、アーセナルのプレシーズンキャンプに同行した。ユーレイルパスを駆使して、オーストリアのグラーツからベルギーのベベレンまで。日を重ねるにつれ、稲本の表情がこわばっていったのを思い出す。なかなかトップチーム同士のテストマッチで起用されず、取材しているこちらもフラストレーションが溜まった。
 
 現在、森岡亮太が所属するベベレンは当時2部で、アーセナルと人材供給の提携契約を結んだばかりだった。さっそく2名の若手選手が北ロンドンからレンタルで駆り出され、武者修行がスタート。その発表会見の場で、わたしはフランス人指揮官に尋ねた。
 
「イナモトもレンタル移籍させる可能性はありますか?」
 
 すると名将は一瞬にして不機嫌になり、「イナには期待している。そんな可能性などない!」と吐き捨てられた。どうしてあんなに怒ったのだろうか。英語の発音が拙かったからか。いまでも解せない。
 
 しかしながら、現実は稲本にとってあまりにも酷だった。いまだから話せることもあるだろう。
 
「簡単に言えば、レベルが違った。試合にはまったく出れずで、どんどん時間だけが経って、半年くらいした頃かな。もう諦めかけてる自分がおった。そんななか、唯一の拠り所になってたのがワールドカップ。次の年にワールドカップがあるからと、それだけをモチベーションに頑張ってましたね」

次ページパスは速くて強くて、正確。球回しなんて経験したことがないレベルで。

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