【黄金世代】第4回・稲本潤一「スーパーエリートの葛藤と苦悩」(♯3)

2017年08月30日 川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

ワールドユースは、そんなに悔しい感じではなかった。

今回はいよいよワールドユースの核心へ。快進撃の裏側で負傷明けのボランチはどんな想いを抱き、仲間を見つめていたのか。写真:山崎賢人(サッカーダイジェスト写真部)

 1999年3月、U-20日本代表はJヴィレッジに集結し、ワールドユースに向けた最終調整に入っていた。
 
 ピッチ外ではフィリップ・トルシエ監督が日本サッカー協会の上層部や医療スタッフらと、喧々囂々(けんけんごうごう)の激論を交わしていた。開催地はナイジェリア。国が定める渡航基準に準じれば、選手たちは3か月近くをかけて黄熱病、破傷風、コレラ(2回)の予防注射を打たなければならない。だがそれでは、最終メンバーにねじ込みたい選手が間に合わないと、指揮官が噛みついたのだ。彼は自身の経験上、黄熱病だけで問題ないと主張した。
 
 そしてもうひとつ、招集すべきか否かの渦中にいる選手がいた。稲本潤一である。
 
 Jリーグの試合で膝の靭帯を傷め、ガンバ大阪では強行出場を続けていたが、とてもワールドユースで先発を飾れるようなコンディションではなかった。Jヴィレッジのテラスから、仲間の練習を見守る稲本。物憂げな表情を浮かべていた。
 
「世代別の大会やから、一生で一度しか出れない。だからどうしても行きたかった。でも結果的にチームには迷惑かけましたね。ガンバにもU-20にも。両方とも中途半端やった。所属チームで出てないのに代表で出るのはおかしいやろと思ってたから、ガンバでは痛み止めの注射を打ちながら無理してやってたんですよ。そのリバウンドがU-20に合流してから出てしまって、コンディションはまるで上がらんままやった。

 いま、37歳になって冷静に考えてみると、多少プロじゃない振る舞いやったんかなと思います。後悔はしてないけど、周りには迷惑をかけてしまった」
 

 それでもトルシエは「イナを外すことはあり得ない」と、迷わず登録メンバーに選んだ。だが当然、稲本はベンチを温めるほかない。苦楽を共にしてきた僚友たちの快進撃を、彼はどう見ていたのか。
 
「そんなに悔しい感じではなかった。初戦で負けたチームがあそこまで行くって、国際大会じゃなかなかないことやないですか。ヨーロッパとかアメリカとかオーストラリアとか、開催基盤がしっかりしてるとこでやってたらまた違ったのかもしれんけど、ああいう厳しい環境の中ではチームがひとつにならなければいけない。ブルキナファソでの経験があって、しっかり団結できてた。一体感があったから、僕もその中で自分になにができるかだけを考えてましたよ」

次ページなんとしてもシャビを止めてやろうと思ってた。でも……。

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