【黄金世代】第3回・小笠原満男「ジーコジャパンの真相と、セリエA挑戦の深層」(♯5)

2017年07月10日 川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

あの4人がいると、まあ出れなかったね。悔しさはあったよ。

鹿島での順風満帆な日々とは裏腹に、日本代表でのキャリアはまさに波乱万丈。「思い出はたくさんある」と話し、レアなエピソードを披露してくれた。写真:佐野美樹

 日本代表における小笠原満男のハイライトは、はたしてどの時期だろうか。
 
 国際Aマッチの出場記録は、55試合・7得点。この数字を本人に伝えると、少し驚いたような表情を見せ、「そんなに出てたの? びっくりだね」と目を丸くした。
 
「代表に選ばれるって本当に光栄なこと。みんなが行きたくても行けない場所だし、限られたひとしか行けない。なかなか出れなかったから、悔しい想いをしたなぁってのはあるけど、思い出はたくさんある。55試合も出たって実感はないけどね」

【PHOTO】小笠原満男の華麗なるキャリアを厳選フォトで 1994-2017 

 1999年のワールドユースで眩いばかりの輝きを放った小笠原だが、その後のシドニー五輪代表では一度もメインキャストとはなれず、フィリップ・トルシエ監督との間にあった微妙な距離は、一向に縮まらなかった。
 
 ところが、2002年日韓ワールドカップ目前の3月に、急転直下の展開を見せる。親善試合のウクライナ戦に初招集され、A代表デビューを飾ったのだ。そしてなんと本大会の登録23人枠にも食い込んだのである。
 
 本人も周りも、あっと驚くサプライズ選出だった。
 
「正直、2002年は行けると思ってなかった。冷静に見たら難しいと。だから驚いたよね。なんで呼ばれたのかは……いちいち(トルシエに)訊いてないから分からない(笑)。なんでだったんだろ。とくになにも言われなかった。
 
 試合はチュニジア戦(グループリーグ第3戦)にほんのちょっと出ただけだけど、日本の国中が応援してくれたから、嬉しかったよね。サッカーの力ってすごいなって実感した。ホテルから会場に行くまでの道路沿いで、ずらっと並んで日の丸を振ってくれてさ。いい経験をさせてもらった」

 
 そして、恩師ジーコが代表監督に就任する。すると小笠原は中盤に欠かせない存在となり、ドイツ・ワールドカップまでの4年間、すべての試合や遠征に招集された。
 
 だがそれは、自問自答を続ける葛藤の日々でもあった。
 
「トルシエさんの頃に比べたら割と使ってもらえるようにはなった。でも、海外でやってる選手が帰ってくると出れない、いなければ出れるっていう構図。なんとか覆して自分のポジションを確立したいと思ってたけど、ヒデ(中田英寿)さん、(中村)俊輔さん、シンジ(小野伸二)、イナ(稲本潤一)の4人がいると、まあ出れなかったね。悔しさはあったよ」
 

次ページあの時のシンジの姿勢がいまでも忘れられない。

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