【ミラン番記者】去りゆく本田圭佑にいま思うこと。3年半を総括して採点すると…

2017年06月10日 マルコ・パソット

成績は「まあまあ」といったところだろう。

ミラン初の日本人プレーヤーとなった本田。3年半を過ごした。写真:Alberto LINGRIA, Studio Buzzi,Getty Images

 本田圭佑のミランでの冒険が終わった。幸いにも、最後の最後に人々の瞼と記憶に残ったのは、ミラン初の日本人プレーヤーに対する良い思い出だった。大事なのはあまり前まで時間をさかのぼらないことだ。できれば5月中旬以前のことは思い出さないほうがいい。
 
 ミラニスタは5月のクラブ月間ベストゴールに、ボローニャ戦(5月21日のセリエA37節)の本田のFK弾を選んだ。本田はクラブのSNSでそのことに感謝しつつも、自分はあれが一番だとは思わないと謙遜し、そして改めてサポーターに別れの言葉を送った。世界は狭い。また必ず会える日が来る、と――。
 
 本田の16-17シーズンは散々なものだったが、少なくともミランにヨーロッパリーグ行きのチケットを贈ったという満足感だけは残っただろう。それを確実にしたのは、まさに彼のゴールだったからだ。
 
 またそのキャリアには、イタリア・スーパーカップというタイトルも加わった。出場機会がなかったとはいえ、ベンチメンバーにだってこれを誇る権利はある。ヴィンチェンツォ・モンテッラ監督が「無敵艦隊」と評するユベントスを破っての優勝は価値あるものだ。
 
 しかし何よりも大きな救いとなったのは、最後にはれっきとしたチームの一員としてミランを去れたことだ。サポーターの前でチームメイトと心から喜び、ハグをし合ってフィナーレを飾ることができた。
 
 つまり最後の最後に起こったことで、それまでの苦い思いがほんの少しだけ和らいだというわけだ。ただもちろん、すべてが消え去ったわけではない。
 
 2014年1月にミランに加入した本田は、3年半で公式戦通算92試合に出場して11ゴール・14アシストを記録した。正直に言えば、「そこそこ」といった数字だろう、これより良い成績を上げることもできただろうし、もっと悪くなる可能性も十分にあった。
 
 栄光の背番号10を纏った日本人は、本田デビュー試合の敗戦で首が飛んだマッシミリアーノ・アッレグリにはじまり、クラレンス・セードルフ、フィリッポ・インザーギ、シニシャ・ミハイロビッチ、クリスティアン・ブロッキ、そしてモンテッラとその間に6人もの監督に師事した。クラブが混乱期だったのはこの指揮官の数からも読み取れる。
 
 16-17シーズンに限っては、本田は完全に"ブラックホール"に陥ってしまった。モンテッラはたった8試合でしか起用せず、うち6回は最後の数分にプレーさせただけだ。出場時間は合計221分。これは悲劇以外の何物でもない。1シーズンで2試合ちょっとにしか出られなかったのだ。
 
 12月半ばから4月の半ばまでは16試合連続で1分もプレーしない日々が続く。レギュラーが怪我やコンディション不良で、交代選手が結果を残せない時期でも、モンテッラは本田を顧みることはなかった。

次ページ真摯な姿勢は誰もが認め賞賛するものだった。

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