【黄金世代】第2回・遠藤保仁「それは、桜島からはじまった」(♯1)

2017年05月18日 川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

最近、チャレンジしなきゃいけないことが増えた。

超ロングインタビューに応じてくれた遠藤保仁。全4回シリーズで、そのキャリアをあらゆる角度から掘り下げる。写真:小倉直樹(サッカーダイジェスト写真部)

 いまから18年前、金字塔は遠いナイジェリアの地で打ち立てられた。

 1999年のワールドユースで世界2位に輝いたU-20日本代表。チーム結成当初から黄金世代と謳われ、のちに時代の寵児となった若武者たちだ。ファンの誰もが、日本サッカーの近未来に明るい展望を描いた。

 後にも先にもない強烈な個の集団は、いかにして形成され、互いを刺激し合い、大きなうねりとなっていったのか。そしてその現象はそれぞれのサッカー人生に、どんな光と影をもたらしたのか。

 アラフォーとなった歴戦の勇者たちを、一人ひとり訪ね歩くインタビューシリーズ『黄金は色褪せない』。
 
 今回はガンバ大阪の生ける伝説、遠藤保仁の波乱万丈ストーリーに迫る。歯に衣着せぬ独特の言い回しで、黄金世代への熱き想いを語り、自身の濃密なキャリアを振り返ってくれた。
 
 ヤット、颯爽と登場!!

【遠藤保仁PHOTO】骨太のキャリアを厳選フォトで振り返る 
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 夕陽が差し込む練習場で、遠藤保仁は居残り練習をしていた。
 
 そこに歩み寄ってきたのが、清雲栄純監督だ。1997年の初夏、立ち上げまもないU-18日本代表の合宿が、静岡県の清水市で行なわれていた。
 
 初めて遠藤と会話するらしい指揮官が、「よし、いいニックネームを考えた。遠藤は今日からサクラジマだ」と切り出した。とくに嫌な顔もせず、苦笑するばかりの本人。ユーモア溢れる清雲氏ならではの"いじり"だったが、さすがにそれはないだろうと立ち上がったのが、黄金世代の仲間たちだ。
 
「ダメですよ、そんなの。仇名はちゃんとあるんです。な、ヤット?」
 
 スポーツ刈りの頭を撫でながら、鹿児島実業高校のボランチは軽くうなづいた。傍らであぐらをかぎ、ほかの選手の取材をしていたわたしが、初めて「ヤット」のフレーズを耳にした瞬間だった。
 
 いきなり余談だが、遠藤のご両親が発する「ヤット」は、響きが違う。日本中に広く浸透しているノーアクセントではなく、しっかりと「ヤ」を強調している。それが鹿児島弁風であり、おそらくはオリジナルなのだろう。あの鹿実の名将、松澤隆司総監督も同じだったから、きっと間違いない。
 
 一度見たら忘れない、あの人懐っこい笑顔は、20年前とまるで変わらない。その穏やかな性格と物腰も然りだ。
 
「基本的に負けず嫌いで、それは昔からずっと。感情を表に出さないところや、何事にも動じないあたりも。性格はそうそう変わるもんじゃないでしょ。
 
 でも最近、この歳(37歳)になって思う。チャレンジしなきゃいけないことが増えて、意味合いも変わってきたなって。立場的には、いろんなものにチャレンジするより、コンディションをキープしようとか、これ以上やったら筋肉が切れるから抑えようとか、守るものが多くなるはずでしょ。でも俺には、そういう考えがいっさいない。
 
 いつもチャレンジしていたい。なにもかも若手と同じでいいし、ベテラン調整とか、マジでいらない」

 

次ページもっと楽しようと思えば思うほど、ポジションが下がった。

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