【黄金世代・復刻版】「遠藤家の人びと」~名手ヤットのルーツを辿る(後編)

2017年05月18日 川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

「10番をつけるか?」と訊いたら、あっさり「7番がいいです」。

遠藤3兄弟はいずれも鹿児島実高で主軸を担い、全国大会でも存在を誇示した。(C)SOCCER DIGEST

 桜島中での3年間を経て、95年、保仁は「当然のように」(本人談)、鹿児島実高の門を叩く。すでに拓哉は地元企業に就職、彰弘は横浜マリノス(当時)で桜島初のプロフットボーラーとなっていた。

 ふたりの兄と同様に自宅→フェリー→学校(市内)を自転車で往復(約3時間)し、毎日帰宅するのは夜遅く。ともに時間を共有し高め合ってきた"戦友"がいなくなったわけだが、保仁のビジョンには一点の曇りもなかった。
 
 鹿児島実高の名将、松澤隆司総監督は、「あの子に教えることはなにもなかった。すでにサッカーをよく知っていた」と話す。
 
 さらに「桜島から来た子どもたちはみんな基本がしっかりできている。たいていは改めて教えなければいけない子が多いんだけど、彼らには必要がないし、僕がポジションを与えてあげるだけ。だから1年生の頃から試合に出れる子が多いんですよ」と称える。
 
 ただ、保仁はふたりの兄のようにはいかなかった。

 急激に身長が伸びる時期だったこともあるが、じっくり周囲を見極めて"活用する"のがヤット流。長くともに過ごした桜島の仲間たちとは異なる、曲者揃いのチームメイトたち。その個性を見極めつつ、かといって慌てることなく、着実に成長曲線を描いていったという。
 
 松澤の薦めで高2の冬に単身でブラジル留学を果たしたことで、プロになるための強い意識も備えた。「あれからまた目の色が変わりましたよ。ふたりの兄貴と同じように『10番をつけるか?』と訊いたら、あっさり『7番がいいです』。考えがハッキリしとるんです」と総監督は当時を振り返っていた。

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