「ミラン育成改革」の舞台裏。ドンナルンマやロカテッリをどう輩出した?

2017年04月21日 片野道郎

OBガッリの下で一貫性と継続性を持って強化。

ドンナルンマ(左)は昨シーズン、ロカテッリ(右)は今シーズンに一気に台頭した。写真:Alberto LINGRIA

 かつて「育成軽視のクラブ」と言われていたミランが下部組織の充実に力を注ぐようになったのは、2000年代末のこと。クラブが財政難に陥り、オーナーのベルルスコーニ家が即戦力の獲得に潤沢な資金を投下できなくなったからだ。
 
 最初の一手は、アリーゴ・サッキ率いる1980年代のミランでCBとして活躍したフィリッポ・ガッリを、育成部門の総責任者へ招聘したこと。2009年だった。以来8年間、クラブはその指揮の下で一貫性と継続性を持ってユース部門の強化に取り組んできた。
 
 2009年というのは、ミランがカカをレアル・マドリーに6500万ユーロ(約78億円)で売却した年である。初めて「カネのため」に主力選手を手放し、しかもその売却益を、すべて赤字補填のために費やしたのだ。この年以降、クラブは移籍市場にほとんど資金を投じておらず、過去7~8年の移籍金収支はゼロに近い。ただ一方で、育成部門の強化は少しずつ、しかし着実に進めてきた。
 
 育成というのは一朝一夕に結果が出るわけではない。蒔いた種を刈り取るまでに10年単位の継続と忍耐が必要だと言われる。実際にミランも、当時からの積み重ねがようやく形になり始めたのは、ここ1~2年の話だ。
 
 ガッリが就任した当初、育成部門のスポーツディレクター(SD)には、それまでブレッシャ、カリアリ、トリノでSDを務めてきたマウロ・ペデルツォーリを招いた。
 
 当時実践したのは、10代後半のタレントを国内外のクラブからスカウトしてくるというアプローチだ。数年後に目に見える結果を出そうという狙いである。しかし、このプロジェクトは3年ほどで頓挫する。
 
 ペデルツォーリが去った12年前後からは、より長期的な視点に立った抜本的な改革に着手した。ちなみにこの年は、シルビオ・ベルルスコーニ名誉会長が公約を反故にしてズラタン・イブラヒモビッチとチアゴ・シウバをパリSGに売却し、完全なリストラ路線に突入した年だ。

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