【日本代表秘話】森重真人の転機は2010年。「僕はあの年を境に大人のフットボーラーになっていった」

2016年12月22日 飯尾篤史

大分からFC東京に新天地を求めて、いきなりJ2降格という屈辱。

2010年の最終節、京都に敗れてJ2降格が決まる。加入1年目だった森重は涙は流さず、ただ茫然としたままピッチに座り込んでいた。写真:小倉直樹(サッカーダイジェスト写真部)

 キックオフの頃には明るかった京都の空が漆黒に包まれている。2010年12月4日、京都サンガの勝利を告げるホイッスルが鳴った瞬間、FC東京の選手たちがピッチにバタバタと倒れ込んだ。
 
 梶山陽平は仰向けに横たわり、今野泰幸は膝を立てて突っ伏し、しばらく動けなかった。ゴール付近では権田修一が、ベンチ前では米本拓司が人目をはばからず号泣している。
 
 愛するクラブをJ2に落としたことへの責任を誰もが重く受け止め、だからこそ、現実と向き合えないようだった。
 
 このシーズンに大分トリニータから加入した森重真人も、呆然とした表情でピッチに座り込んでいた。
 
 だが、この時はまだ、チームメイトのように心が締め付けられるほどのショックを受けていたわけではなかった。
 
「まだ1年目で、そこまで愛着があるわけではなかったですから……。自分は2年連続の降格だったから『またかよ』とか、『 これだけのメンバーがいるのにウソだろ』っていう気持ちの方が強かった。涙が出てくることはなかったですね」
 
 優勝するためのラストピースとして迎えられた男が「俺の責任だった。本当に申し訳ない」と強く反省し、生まれ変わる決意を固めるのは、それからしばらくしてからのことだった。
  
 その1年前、鹿島アントラーズのリーグ3連覇で幕を閉じた09シーズンのストーブリーグで主役になったのは、大分の選手たちだった。
 
 アンダー世代の代表選手が揃い、2008年にナビスコカップを制した大分は、しかし、若いチームゆえにパフォーマンスに波があり、怪我人が相次いだこともあってJ2に降格してしまう。資金難にも陥ったため、経営の立て直しが図られることになり、西川周作、金崎夢生、清武弘嗣といった若きタレントたちが他クラブのターゲットになった。
 
 2008年の北京五輪に出場した森重も、そのひとりだった。
 
「経営面の問題もあって移籍することになったんですけど、僕自身も大分に4年いて、ポジションを確立していたし、怒られることもなくなっていたので、甘えの許されない環境に身を置きたいと思うようになっていたんです」
 
 森重の元には浦和レッズ、川崎フロンターレ、FC東京からオファーが届いた。その中からFC東京を選んだのは、「最も成長できると思ったから」だった。
 
 「東京には今野さんや(徳永)悠平さんといった日本代表選手がいたし、監督の城福(浩)さんとも話して、ここなら自分に足りないものを得られるんじゃないかって思ったんです」
 
 大分は当時、3バックで戦っていた。ボランチとしてプロ入りし、CBにコンバートされた森重には、FC東京が採用する4バックでのプレー経験がほとんどなかったが、そのことへの不安もなければ、4バックに慣れて、同じく4バックで戦う日本代表への足がかりにしたいという思惑もなかった。
 
「そもそもまったく気にしていなかった。3バックだろうが4バックだろうが、CBはCB、大差ないって。実際は違うんですけどね。あの頃は本当に甘かったというか、若かったというか……」
 
 そう言うと、森重は頬にエクボを作って苦笑した。その甘さ、若さが 10 シーズン、森重を苦しめることになるのだ。

次ページ「年間ワーストプレーヤー」。森重真人は、2010年の自分をそう振り返る。

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