「いつか浩司さんのような選手に」同じ想いを持つ青山と柏木は去りゆく男の苦闘と凄みに何を感じたか

2016年11月14日 中野和也

ポジティブな言葉なんてかけることはできない。

11月12日の天皇杯では88分から途中出場。その雄姿は年の瀬まで見られそうだ。(C) SANFRECCE

 ポロポロ、ポロポロ。
 
 青山敏弘は、泣いた。泣き続けた。森﨑浩司が「俺、引退するわ」とさりげなく言葉をかけた、その直後からだ。
 
「どうして、あれほどショックを受けたのか」
 心の奥底の声を聞いてみる。青山は、分かっていた。
 
「浩司さんはいつも自分の前に、そして後ろにもいてくれた。引っ張ってくれるし、後ろから支えてもくれた。浩司さんがいない時、僕らはどうやって(広島のサッカーを表現)すればいいか、分からない。2009年、僕らはどんな相手とやっても試合を支配して、4位になった。でもあの時、浩司さんはずっと、いなかった。前の年、J2とはいえ14得点・7アシスト。あれほど点をとっていた浩司さんがいれば……。僕らはずっと、そう思っていた」
 
 その2009年の終盤、青山は膝を負傷。左膝内側半月板縫合術という手術を受け、全治4~5か月という診断を受けた。必死のリハビリを続け、翌年の川崎戦で復帰。だがその試合で再び、左膝の内側半月板を断裂。さらに手術を重ねて全治2か月。怪我による長期離脱を何度も繰り返してきた。
 
 「こういう時、僕はいつも自分を責める。どうして自分は、チームの役に立てないのか。そういうことばかり、考える。そしてきっと、浩司さんも同じ気持ちになっていたはずなんです」
 
 オーバートレーニング症候群で、09年のほぼ1年間を棒に振った。それからも毎年のように症状に陥っては離脱を繰り返し、13年にはまたも、ほぼ1年間近く、戦えなくなった。
 
 精気のない表情。焦点の合わない視線。サッカーができない辛さ。09年には、生きる意欲すら失った男の苦闘。
 
 青山はずっと、その姿を間近で見てきた。しかし果たして、その時の浩司に対して何ができたというのか。
 
「頑張りましょう」
「大丈夫ですよ」
「きっと復帰できますよ」
 
 ポジティブな言葉だ。だが、明日の自分すら思い描けないような症状と戦っている選手に、具体的な裏づけのないポジティブな言葉をかけることなんて、できない。
 
 浩司はすでに、頑張っていた。それでも苦しい。根拠もなく「大丈夫」だとか、まして復帰のことなんて、言えない。
 
 兄・森﨑和幸の述懐である。
 
「09年春に味わったあいつの苦しみは、想像を絶していた。実際にあいつと会った時、症状の悪化が一目見て、分かったから。サッカー選手として戻ってきてほしいなんて、思えない。兄として、弟が普通の生活をできるようになってほしい。心から願った。
 僕も(慢性疲労症候群による)辛さを味わった。その苦しさを単純に比較はできないけれど、きっとあいつの方が厳しかったと思う」
 

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