レジェンドの軌跡 THE LEGEND STORY――第8回・フランコ・バレージ(元イタリア代表)

2016年10月20日 サッカーダイジェストWeb編集部

2度のセリエB降格でもミランを見捨てなかったレジェンド。

ミランと苦楽をともにしたバレージ。今なおミラニスタに愛される存在であり、その背番号6は永久欠番となっている。 (C) Getty Images

 本誌ワールドサッカーダイジェストと大人気サッカーアプリゲーム・ポケサカとのコラボで毎月お送りしている「レジェンドの言魂」では、サッカー史を彩った偉大なるスーパースターが、自身の栄光に満ちたキャリアを回想しながら、現在のサッカー界にも貴重なアドバイスと激励を送っている。
 
 今回登場するのは、ミランで全てのタイトルを獲得し、イタリア代表としても最終ラインのリーダーとして一時代を築いたイタリア・サッカー史上に永遠に語り継がれるリベロ、フランコ・バレージだ。
 
 選手としてだけでなく、ひとりの人間としても高い評価を受け続けたカルチョのレジェンドの偉大なる足跡を、ここで振り返ってみよう。
 
――◇――◇――
 
 フランコ・バレージが誕生したのは1960年5月8日。イタリア・ブレッシア県のトラバリアートで、2番目の男の子として生を受けた。
 
 大人になってからも176センチと決して体躯に恵まれてはいなかったバレージだが、子どもの頃から身体は小さかった。それが原因で、幾つかのクラブの入団テストで不合格となり、兄ジュゼッペのいるインテル入りも成らなかった。
 
 しかし、インテルのライバルであるミランは、この当時14歳の少年の類稀なセンスに着目し、プリマベイラへの入団を許す。ここから、バレージとミランの蜜月が始まっていく。
 
 1978年4月23日のヴェローナ戦でトップチームでのデビューを果たすと、翌78-79シーズンにはCB、もしくはスイーパーとしてレギュラーポジションを獲得。ジャンニ・リベラ、ファビオ・カペッロといった名手たちとともに、早くも最初のスクデットを手にした。
 
 しかし80年、イタリアを震撼させた一大スキャンダルにおいて、不法賭博に連座したとしてミランはセリエB降格処分を受けるとクラブの財政もチーム状態も悪化。1年でAに復帰するも、81-82シーズンは30試合で7勝しか挙げられず、再びBに逆戻りとなった。
 
 このクラブの暗黒時代、イタリア代表にも名を連ねていたバレージには当然ながら他クラブからオファーが届いたが、彼はミランへの忠誠を誓い、全てを拒絶。クラブとともに最悪の時を乗り越えようと奮闘を続けた。
 
 状況は1986年、シルビオ・ベルルスコーニのクラブ買収によって劇的に変化を遂げた。メディア王の到来で財政が潤ったミランは、倒産寸前のクラブから一転、多くの名手をかき集めて一気にカルチョの盟主へと昇り詰めたのである。
 
 革新的なプレッシングサッカーを編み出したアリーゴ・サッキ監督の下、ルート・フリット、ロベルト・ドナドーニ、カルロ・アンチェロッティらが躍動して攻撃力を飛躍的に高め、87-88シーズンにディエゴ・マラドーナのナポリを抑えてセリエAを制した。
 
 バレージはこのスター軍団において、キャプテンとしてチームをまとめるとともに、CBのアレッサンドロ・コスタクルタ、そしてマウロ・タソッティ、パオロ・マルディーニの両SBとともに、鉄壁の守備陣を形成。この顔ぶれはその後、イタリア代表でも見られることとなる。
 
 バレージの良さは、決して大きくない体躯ながらも、屈強な相手攻撃選手に競り負けず、スピードに乗った相手に対しても抜群の読みと俊敏性でボールを奪い、またはプレーを遅らせられること。リベロとして時折見せる最後尾からの上がりは効果的で、戦術理解度も抜群に高かった。
 
 加入1年目は怪我に泣いたマルコ・ファン・バステンが覚醒し、フランク・ライカールトが3人目のオランダ人助っ人として加入し、さらに攻守で力を増したミランは、88-89シーズンにチャンピオンズ・カップ(現リーグ)を制覇、そして89年冬には東京で世界王者の称号を手に入れた。
 
 その後、ミランは90年に欧州と世界を連覇、さらに92-93シーズンから3シーズン連続でチャンピオンズ・リーグ決勝に進出し、93-94シーズンには圧倒的不利の予想を覆してバルセロナを4-0で撃破し、バレージ自身は欧州V3を果たした。
 
 もっとも、このバルサ戦については、出場停止のために栄光の瞬間に立ち会うことができなかったバレージだが、セリエAでは91-92シーズンの史上初となる無敗優勝、そしてそこからのリーグ3連覇に、直接的に多大な貢献を果たした。

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