【連載】小宮良之の『日本サッカー兵法書』其の九十「プロフェッショナルの監督に必要なもの、不必要なもの」

2016年09月28日 小宮良之

過程など関係なく、生み出した「作品」だけで評価を受ける。

覚悟を決め、揺るぎない姿勢で全てを懸ける。それが選手に安心感を与えるとともに、彼らを奮い立たせ、その力を引き出す。 (C) Getty Images

 監督の本分とは、なんぞや?
 
 選手たちに日々の練習を行なわせ、その集中力を高め、競争力を上げ、試合に臨み、修正を加え、再び戦いに挑む。
 
 試合に勝つにはトレーニングの部分が肝であるわけだが、「勝利のレシピ」があるわけではないから、決して簡単ではない。
 
「試合だけでなく、練習も見に来てほしい。自分たちの努力も伝わるはずだから」
 
 こんな表現をするサッカー監督がいるし、実際に聞いたこともある。スタッフのなかにも、こういう考え方の人は少なからずいるだろう。
 
「練習も見ないで、批判するのは勘弁してほしい」という反発が、発言の裏には見える。努力している姿を見たら、辛辣には報道できないと――。
 
 しかし、こうした考え方はまったく的外れである。心情的には理解できるが、甘えも甚だしい。
 
 トレーニングを積むことで試合に挑む。言い換えれば、試合が監督の「作品」披露となる。当然ながら、その作品で全てを語るべきだろう。
 
 例えば、小説家が物語を紡ぐのに、どれだけ苦労し、時間を要したか、そんなことは知ったことではない。料理人にとっての料理、映画監督にとっての映画、画家にとっての絵画。プロは生み出した「作品」だけで評価を受ける。
 
 それは、社会人、あるいは学生だって同じかもしれない。
 
「練習の努力を見てくれ!」
 
 入場料を取り、放映権を売るプロが、そんな甘ったれたことをどうして口にできるのだろうか?
 
 もっとも、筆者は「監督を結果云々だけで論じるべきではない」と考えている。サッカーには必ず勝ち負けがあり、結果だけで語ることは本質を見失うことになるからだ。
 
 しかし、試合こそが「作品」である。その事実は揺るがない。チームとして目指すべき方向性が見えず、選手の距離感がばらばらでサポートもないという状況では、監督の未来はないだろう。
 
「練習ではできていた」などという弁解には意味がない。それが厳しいプロの世界なのである。
 
 だからこそ、監督は尊敬されるべき稼業だとも言える。
 
 自分を律しながら、集団を率いなければならない。敗戦のショックで立ち直れず、ベンチで呆然とするような甘ったれは監督をやるべきではないだろう。たくさんの選手を、スタッフを不幸にする可能性がある。

次ページ厳しい環境のなかで1試合という作品に全てを懸ける難儀な仕事。

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