久保建英のすべて<3>――順調な日々からの暗転。彼は試合を眺めているしかなかった

2016年09月16日 サッカーダイジェスト編集部

もはや久保は2年間も公式戦でプレーしていなかった。

順調に成長を遂げていた久保にとって、青天の霹靂ともいうべき出来事が。(C) Getty Images

 カンテラ(下部組織)での久保の成長は順調だった。個人としても日々進歩を遂げ、チームも結果を出していた。このままいけば、数年後にはバルサのトップチームでデビューを飾る日がやってくるだろう――。誰もがそんな夢を見ていた。
 
 しかし13年1月、夢は儚く打ち砕かれる。
 
 その日、バルサはカタルーニャ・サッカー協会経由でFIFAからの通達を受け取った。それは久保より3歳年上の韓国人選手、イ・スンウの登録を禁止するという内容だった。彼の移籍は、未成年の海外移籍を禁止するFIFA規約第19条に抵触する、というのだ。
 
 それでもまだ、久保はプレーを続けることができた。スペイン・サッカー協会が12歳以下の選手の移籍を認めていたからだ。しかしそれから数か月後、同じカンテラのパク・スンホ、ヤン・ギョルヒ(ともに韓国)、パトリス・ソウシア(カメルーン)、ボビー・アデカニェ(ナイジェリア)、ベン・レーダーマン(アメリカ)、テオ・チェンドリ、カイス・ルイス(ともにフランス)らとともに、久保は公式戦でのプレーを禁止されてしまうのだ。
 
 13年から14年にかけては、久保とその家族にとって非常に厳しい時期になった。毎週末、久保には過酷な現実が突きつけられる。ウィークデーは仲間と一緒に練習ができたが、週末はピッチから離れたところで、ただ試合を眺めるしかなかったのだ。その辛さはどれほどのものだっただろう。チームメイトや家族は落ち込む久保を励ましたが、彼の表情から悲しみが消えることはなかった。
 
 14年12月、クリスマス休暇の時期に久保は日本へ一時帰国する。その時、彼の両親は大きな決断を下した。
 
 もはや久保は2年間も公式戦でプレーしていなかった。家族も離れ離れで、父親は日本での仕事があり、母親は息子たちとともにバルセロナにいた。状況は誰にとっても辛いものになっていた。最後の望みは、国際スポーツ仲裁裁判所がFIFAの処分を却下する、というものだったが、それも叶わなかった。

次ページお別れ会の席では多くの人が涙を流して人気者の帰国を悲しんだ。

みんなにシェアする
Twitterで更新情報配信中

関連記事