【連載】小宮良之の『日本サッカー兵法書』其の七十五「共闘精神なくして高みへの到達はあり得ない」

2016年06月16日 小宮良之

集団競技に必要な本当のコミュニケーション力とは――。

FC東京の橋本は一昨年まで2年間にわたり熊本に在籍していた。その彼が5月15日にとった行動は、共闘精神の発露ともいうべきものだった。写真:滝川敏之(サッカーダイジェスト写真部)

  サッカーは、集団スポーツである縛りからは決して逃れられない。
 
 例えば1対1という言い回しはあるが、厳密に言えば、1対1になる局面はなく、11人対11人が基本原則である。1対1のように見えても、プレーが間断なく移り変わるなか、味方がマークを外し、フリーランニングすることで選択肢は限りなく増えていく。また、相手もカバーが付いたりするし、完全なひとりのマーカーということはあり得ない。ここに個人競技との大きな差が生まれる。
 
 すなわち、スポーツでありながらアスリートとしての単純な能力では優劣が付きにくいのである。
 
 周囲との連係力、もしくは相手の状況を見極める洞察力と言ってもいい。その駆け引きにおいて、優るだけのスキルがあれば、アスリート能力で劣ったとしても勝者となれる。そこに究極的なサッカーの本質がある。忘れてはならないのは、絶えず試合が動いているという点だろう。例えば野球のように打席に立つ、という一球一球の勝負ではないのである。
 
 そこで、問われるのが協調性だ。それはコミュニケーション力とも言い換えられる。優れた選手は、人の癖を見抜いたり、心を読み解いたりするのが上手く、一方で自分の意志を伝えるのにも長けている。
 
 しかし、それは機械的、無機的に身につけられるものではない。理論では割り切れない感覚であり、行動規範とも言える。パーソナリティと言われる、人間としての個性を指している。
 
 これは拙著「おれは最後に笑う」のスペイン、バスクのルポで書いていることだが、彼の地では「男としての振る舞い」を求められる。それは他人を慈しめる寛大さ、仲間を大切にする義侠心。あるいは、フットボールが集団競技である原点に根ざした、共闘精神のようなモノである。
 
 例えば、レアル・ソシエダの19歳のルーキー、ミケル・オヤルサバルは午前中にトップチームの練習をした後、同年代の仲間たちがいるCチーム、Bチームの試合をハシゴしていた。スタンドでは相手の危険な反則で負傷した同僚を気遣いながら、熱い視線を送っている。レアル・ソシエダはバスクの名門だが、こうした振る舞いが若い頃から浸透している。
 

次ページスペインの名手たちの引退会見にチームメイトはどのような態度で臨んだのか。

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