世界随一の「リベロGK」はこうして誕生した!「サイドバックとしてはスピードとスタミナが不足していたが…」マンCの守護神エデルソンのルーツを探る

2024年02月26日 沢田啓明

GKへのコンバートを最初は嫌がった

ロジェリオ・セニに憧れていた10代の頃のエデルソンは、トレーニング後に連日、FKやフィードの個人練習を重ねていたという。(C)Getty Images

 フィールドプレーヤー顔負けのボールスキルにフィード技術、ミスを恐れないハートの強さを武器に、ペップ・グアルディラオ率いるマンチェスター・シティのフットボールを最後尾で支えるエデルソン。ブラジルで育まれた"リベロGK"のルーツを探る。
 
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「サンパウロの西に隣接する商工業都市オザスコの貧しい家庭に生まれたエデルソンは、3人兄弟の末っ子で、ブラジルの多くの子どもと同様、物心がつく頃から路地や広場で近所のサッカー仲間とボールを蹴り始めた。同年代の中ではつねに大柄だった。
 
 8歳のとき、市が運営するフットボールチームに加入。最初は左SBだった。当時の監督だったジッバは言う。
 
「左足のボール扱いが上手く、センスを感じさせた。ただ、サイドバックとしてはスピードとスタミナが不足していて、攻撃に参加すると戻ってこられない。そんな課題を抱えていた。さすがにこれでは務まらないので、体格を考慮してゴールキーパーにコンバートしたのさ」
 
 この決断が大正解だった。
 
「エデルソン本人はコンバートを嫌がった。ブラジルでは『フィールドプレーヤーが務まらない下手な奴がやるポジション』という悪いイメージがあるからね。でも、ゴールキーパーの基礎だけを教えて紅白戦に出したところ、いきなり好セーブを連発したんだ。しかもフィードが素晴らしく、攻撃の起点にもなれる。ほどなくしてレギュラーを掴んだよ」
 
 小学校のフットサルチームでもGKを任された。決定的なシュートを跳ね返しながら、機を見たドリブルで持ち上がって決定的なパスを出したり、ロングシュートを叩き込んだりと大奮闘。リベロGKとしての才覚は、この頃から突出していた。
 
 名門サンパウロFCのスクールに入ったのが11歳。「優秀な若者にはアカデミーの入団テストを受けるチャンスを与える」が、スクールのいわば謳い文句だった。
 
 エデルソンの地元の友人で、ともにサンパウロFCのスクールに通ったセベーロは、当時のハードな日々をこう振り返る。
 
「練習は週3回だけど、朝5時に起きてバスを3本乗り継いでトレーニング場まで通うんだ。練習が終わるとまたオザスコまで戻って、小学校に登校する。もうヘトヘトだったよ」
 
 その頃のエデルソンのアイドルは、サンパウロFCに所属していた元ブラジル代表のロジェリオ・セニ。GKでありながら直接FKの名手で、15年の引退までキャリア通算103ゴールを挙げた異色の守護神だ。そんなレジェンドに憧れたエデルソンは、チームトレーニングが終わると連日、FKやフィードの個人練習を積んだ。
 
 08年、14歳でサンパウロU-15のテストを受けて合格。以降、本気でプロを目指すようになる。だが、順風満帆には進まなかった。U-15で味わったのは、ベンチを温める辛く苦しい日々だった。
 
 迎えた09年12月、クラブ関係者から自宅に一本の電話がかかってきた。対応した母親に告げられたのは、次の言葉だった。
 
「残念ですが来年、クラブに息子さんの居場所はありません」
 
 ブラジルのアカデミーは、毎年末に誰をチームに残すか、退団させるかを決めるのが通例だ。母親から電話の内容を聞いて真っ青になったエデルソンは、自身の部屋に閉じこもり、一日中、泣き続けた。
 
 後にエデルソンは、当時の辛さをこう述懐している。
 
「せっかく名門クラブのアカデミーに入って、セニのような名ゴールキーパーになるぞと思って一生懸命にトレーニングに励んでいたのに……。わずか2年で退団だからね。プロになる夢が潰えたと、目の前が真っ暗になった。しばらくは練習どころかボールを見るのも嫌だった」
 

次ページGKとしては史上二番目となる4000万ユーロの移籍金でマンCへ

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