「イングランドでは16歳で選手か審判かを選ぶ」高校生で決意したJリーグのレフェリーという生き方【審判員インタビュー|第6回・高山啓義】

2023年09月14日 サッカーダイジェストWeb編集部

私が高校生の時は「3年後にプロのサッカーリーグができる」という時代

高校生の時にレフェリーの道へ進もうと決意した高山審判員。写真:鈴木颯太朗

「審判員」。サッカーの試合で不可欠ながらも、役割や実情はあまり知られていない。たとえば、「審判員」と法を裁く「裁判官」を同等に語るなど、本質の違いを見かけることもあれば、「審判員にはペナルティがない」という誤った認識を持っている人も少なくはない。

 罰するために競技規則を適用しているわけではなく、良い試合を作るために競技規則を適用していく。それが審判員だ。

 そんな審判員のインタビューを、『サッカーダイジェストWeb』と『週刊レフェリー批評』(株式会社ダブルインフィニティ)が前編と後編に分けて連載していく。

 第6回はJリーグ担当審判員と高等学校の生徒指導主事というふたつの顔を持つ高山啓義氏にインタビューを行なった。

取材・文●石井紘人@targma_fbrj

――◆――◆――

――サッカーを始めたきっかけを教えてください。

「仲が良い友だちが入っていたサッカーチームに誘われて、小学3年生の時に入りました」

――高山さんが小学生の時代は、Jリーグもなく、日本サッカーも黎明期だったと思います。ご出身の栃木県はサッカーが盛んだったのでしょうか?

「そうですね。当時からクラブチームがありましたので、今考えると良い環境だったのかもしれません」

――ご自身の選手レベルはいかがでしたか?

「中学時代には県大会で準優勝、高校時代は県大会で優勝しました。レギュラーとしてプレーしていましたが、私自身は県選抜に選ばれるような選手ではありませんでした。

 中学時代の県大会の決勝では、相手チームのエースが2022年のカタール・ワールドカップで日本代表コーチをしていた上野優作さん(元アルビレックス新潟:現FC岐阜監督)でした。

 上野さんは腕を骨折しながらもプレーしていたのですが、その上野さんに得点を決められて負けました。私はミッドフィルダーだったので、上野さんのボールを奪いにいきましたが、簡単には奪えない。上野さんは県内では知らない人がいないくらいの有名な選手だったので、『巧い選手はこういうプレーをするんだ』と体感したのを覚えています。今でも試合会場でお会いすることがあれば、近況などのお話をしたりします」

――高校を卒業し、サッカーの強豪でもある国士舘大に進まれます。大学でもサッカー部に入られたのでしょうか?

「国士舘大サッカー部は全寮制なのですが、寮生活では審判活動の継続が難しい部分もありました。というのも、私は都心で一人暮らしをして大学に通いながら、栃木県サッカー協会で審判活動を行なっていました。金曜の授業が終わると栃木県に戻り、土曜と日曜で審判活動をしていたので、寮の外出禁止に抵触するのでサッカー部には入りませんでした」
 
――審判を始めるきっかけは何だったのでしょうか?

「高校のサッカー部の監督が元国際審判員で、Jリーグ初年度からレフェリーとして活躍されていた十河正博さんだったのです。私は十河先生のそういった情報を知らずに入部したのですが、その出会いがきっかけです。

 私が高校生の時は『3年後にプロのサッカーリーグができる』という時代だったので、サッカー中継もありませんし、十河先生のレフェリングを見る機会はありませんでした。

 でも部活では、紅白戦で十河先生が主審としてレフェリングすることもあります。部員も、誰かしら副審などを務めないといけません。だいたい審判は『やらされている』からのスタートが多いと思うのですが、十河先生を見て『やってみよう』と思いました」

――十河先生の何を見て『やってみよう』と思ったのでしょうか?

「十河先生の国際審判員としての経験を知りたいというのはあったのかもしれません。私が紅白戦や練習試合で主審や副審を務めた後には、十河先生が直接指導してくれる。今の時代、現役の国際審判員が高校生の指導をする機会はあまりないじゃないですか? 反省会で10を言われれば、10を吸収しようとしていましたし、本当にスポンジのように知識を頂いていました」
 

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