二度のJ1タイトル、代表デビュー。偉大な指導者や強烈な仲間と共に駆け抜けた日々【田中隼磨の生き様|前編】

2023年01月08日 元川悦子

右SBへのコンバートで一気に開花

田中隼磨(たなか・はゆま)/1982年7月31日生まれ、長野県松本市出身。現役時代は横浜、東京V、名古屋、松本で活躍。2022年シーズンを最後に現役を引退。J1通算420試合・15得点、J2通算149試合・4得点、J3通算1試合・0得点、日本代表通算1試合・0得点。写真:元川悦子

 2022年11月20日のJ3最終節・SC相模原戦。87分に登場し、約1年9か月ぶりにピッチに立った松本山雅FCの背番号3・田中隼磨は、短時間のプレーながら鋭い左足クロスを前線へ供給。中山陸の決勝弾を見事にお膳立てした。

 これで松本は1-0で勝利。2014年から9シーズンにわたって「山雅の流儀」を示し続けた40歳の大ベテランの現役ラストマッチを飾ることができた。

 それから1か月半。指導者への転身を決意した隼磨は今、何を思うのか……。改めて23年間のプロキャリアを振り返るとともに、未来へのビジョンを語ってもらった。

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「高校3年だった2000年12月の天皇杯の福岡大学戦が僕のプレデビュー戦でした。天皇杯では準々決勝の鹿島アントラーズ戦にも出場した。この年に3冠を獲った鹿島に対し、(横浜F・)マリノスは俊さん(中村俊輔)がトップ下にいて、俺と(上野)良治さんがボランチを組む形。2人についていこうと必死に走り回った覚えがあります」

 田中隼磨は2種登録選手としてプロの舞台に立った頃のことを鮮明に記憶しているという。正式なトップ昇格は2001年だが、足掛け23年間に及ぶプロキャリアのスタートは高校生の時だった。山口智や稲本潤一、阿部勇樹など当時は複数の高校生Jリーガーがいたが、彼もその中の1人だったのである。

 この時、横浜を率いていたのは、オズワルド・アルディレス監督。ご存じの通り、清水エスパルスの黄金期の土台を築いた名将である。百戦錬磨の指揮官のもとで約1年半プレーした後、2002年途中から東京ヴェルディにレンタル移籍する。ここで指導を受けたロリ・サンドリ監督にボランチから右サイドバックへとコンバートされたことが転機となり、持ち前の走力やアグレッシブさが一気に開花することになったのだ。
 
 そして2004年に横浜に復帰。師事したのは98年フランス・ワールドカップで日本代表を率いた岡田武史監督だった。岡田体制の横浜は強固な守備をベースに強度の高いサッカーを志向。第1ステージを制覇し、浦和レッズとのチャンピオンシップにも勝ってJリーグ優勝を果たす。隼磨にとっても大きな節目の年になったのは間違いない。

「岡田さんからは、褒められたことがほとんどないですね(苦笑)。それは僕が大きな影響を受けた監督である(イビチャ・)オシムさん、ピクシー(ドラガン・ストイコビッチ)、反町(康治)さんに共通することです。

 岡田さんから唯一、ポジティブな声掛けをしてもらえたのが、2006年夏に日本代表に初招集された時。オシムさんの初陣(トリニダード・トバゴ戦)に向けた合宿で、最初に選ばれたのは13人だったんですけど、僕もリスト入りして、試合にも出してもらえた。その翌日の練習時に呼ばれて『このまま続けていたら新しい光景が見えるから』と言ってもらえました。そのことは今も鮮明に覚えています」

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